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「ルイ・ヴィトン」「ロエベ」もオーダーするニッポンの布デザイナー

Fashion(ファッション)
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日本の工場と一緒に布を作り、数々のブランドからオーダーを受けてきたテキスタイルデザイナーの梶原加奈子氏。日本のアパレル関連工場が立ち行かなくなっていく中、「日本の工場や職人の高度な技を暮らしの中に取り入れてもらいたい。職人さんの生命線を広げていく役割を担っていきたい」と言う。

日経クロストレンド

より

常識にとらわれないアプローチで存在感を発揮しているアパレル業界の“革命者”たちの熱量の原点を探り、それをどのようにしてビジネスにつなげていったかを掘り下げていく。今回はテキスタイルデザイナーの梶原加奈子氏。

 世界のラグジュアリーブランドが日本の工場で布を作り、服に仕立ててパリコレで発表しているのをご存じだろうか。日本の布作りの技術が、「あの工場でしかできないもの」と世界のトップブランドから認められているのだ。「もっと宣伝していいのに」という話だが、ブランドとの間に厳しい守秘義務があって宣伝することはできない。日本の“クラフツマンシップ=職人技”は確かな価値を持っているのにもったいないと思う一方、日本人として誇らしさを感じる。

 テキスタイルデザイナーの梶原加奈子さんは、こういった動きを支えてきた一人。日本の工場と一緒に布を作り、「ルイ・ヴィトン」「ロエベ」「ジョルジオ・アルマーニ」など数々のブランドからオーダーを受けてきた。

テキスタイルデザイナーの梶原加奈子(かじはら かなこ)氏は1973年札幌市生まれ。99年に多摩美術大学デザイン学部染織科を卒業し、イッセイミヤケに入社。2002年に退社し、03年に英ロンドンにある美術系大学院大学RCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)入学。06年に帰国し、KAJIHARA DESIGN STUDIO(カジハラデザインスタジオ)創業
 

作り手と使い手の懸け橋になる

 テキスタイルデザイナーとは、どういう仕事なのか。暮らしの周辺には多くのテキスタイル(布)がある。アパレルをはじめ、カーテン、タオル、ラグ、クッション、ベッドリネンなど。それらには、さまざまな糸や織り、あるいは柄が施されている。それらのデザインを手掛けるのがテキスタイルデザイナーの仕事だ。梶原さんは、KAJIHARA DESIGN STUDIO(カジハラデザインスタジオ)を率い、約10人のスタッフと共に、日本各地にある産地や、アパレル、インテリア、建築などさまざまな分野の企業と組んで布を開発し、国内外に送り出してきた。工場と一緒に開発するオリジナルブランドに加え、寝具やタオルのメーカーと一緒に製品を開発し、ブランド化する仕事も手がけている。

 その功を認められ、欧州のデザインコンペティション「TEXPRINT2005」の新境地開拓部門でグランプリを、2013年には欧州を代表するテキスタイルの見本市「Premiere Vision Paris」主催のテキスタイルコンペティション「PV Award」で開発に取り組んだ工場と共にグランプリを受賞。そして20年には第42回繊研賞を受けてもいる。

 力を入れてきたのは、布作りにおけるクラフツマンシップを伝え広めていくこと。日本の工場や職人が持っている高度な技を多くの人に知ってもらいたい、暮らしの中に取り入れてもらいたいという志を抱き、仕事を通して実践してきた。

梶原氏が手掛ける「COQ(コキュウ)テキスタイル」の靴下

その背後には、バブルがはじけた1990年代頃から、日本のアパレル関連工場が立ち行かなくなり、閉鎖を余儀なくされてきた事実がある。ものづくりの現場がなくなることは、技術が消えていくことを意味する。一度失ってしまったら、復活させるのは容易ではない。「日本の職人は細部にまで気遣いを行き届かせ、質が高いものづくりを続けてきたのが優れているところ」と梶原さん。アパレル業界の財産ともいえるものを残し、未来につなげていきたいという意思が仕事の原動力になっている。

 デザイナーが産地に入り込み、工場と一緒にものづくりをすること自体は珍しくない。ただ、梶原さんのように国内外を問わず、長年にわたってアパレルやインテリアなど幅広い分野で実績を築いている人はごく限られている。

 ご縁を得たのは、梶原さんがある会社のバックアップのもと、オリジナルブランドを立ち上げたときのこと。知人から紹介され、東京・青山のショールームを訪れた。ストールやバッグ、ソックス、クッション、ベッドリネンなど、ポップで華やかな世界が広がっている。さまざまな糸が、繊細な織柄や立体的な造作の布に仕立てられている。「布にはこんなにデザインの可能性があって、人の気持ちを動かすのか」と、その豊かさに目を奪われた。

 梶原さんの話を聞き、布をデザインするだけでなく、工場の職人と一緒になってものづくりに取り組み、それを国内外で発信していると知った。よどみなく語る梶原さんの言葉に信念のようなものが宿っている。力強いと思う一方、相当に手間がかかる仕事だし、きらびやかな脚光を浴びる世界でもない。この意思の強さが続いてくれたらうれしいと感じた。

 その後、リーマン・ショック、東日本大震災、そしてコロナ禍と、不況の波が容赦なく降りかかった。梶原さんが手がけているプロジェクトで、止まったもの、立ち消えたものもあったが、その意思が揺らぐ様子はない。「プロジェクトがなくなったり終わったりすると、寂しいとは思います。でも“作り手と使い手の懸け橋になる”という意思は変わりません」という言葉に力がこもっている。このエネルギーの源はどこにあるのか。

フェリーの住み込みアルバイトでお金をため、美大に

 梶原さんは札幌市で生まれ育った。幼い頃は空想することが大好きで、自分で物語を書いていた。「将来は小説家になりたいと思っていたのです」(梶原さん)。お母さんが趣味で絵をたしなんでいた影響もあって、絵を描くことも好きだった。

 

 高校生になり、お兄さんが広告の世界で働き始めたのを見て、言葉とビジュアルを組み合わせたデザインの世界に引かれ、デザイナーになろうと思い立った。デザインといっても、グラフィックもあればプロダクトもあるのに、なぜテキスタイルを選んだのか。

 「高校の先生から、布をデザインするテキスタイルデザイナーという仕事があって、女性が長くできるから挑戦してみたらいいと勧められたのです」(梶原さん)。東京の美術大学に行きたかったものの両親から反対され、地元の美術短大のデザイン科に入った。しかし、「東京の大学で勉強したい」という思いを断ち切れず、フェリーで住み込みのアルバイトをして予備校の費用と大学の受験費を稼いで親を説得し、多摩美術大学デザイン学部染織科に進んだのだ。やると決めたら、行動で訴えて周囲を動かしていく。今に至る梶原さんの片りんがうかがえるエピソードだ。

 大学を卒業して「イッセイミヤケ」に入社。さまざまな布のデザインに携わったのち、イッセイミヤケを離れ、2003年に英ロンドンにある美術系大学院大学RCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)に留学した。

 RCAでの学びは新鮮なことばかりだった。「美大はいかに美しい布を作るかという作品作りのための勉強でしたが、RCAは社会と関わってビジネスを生む勉強に徹していました」。企業が出す課題に対して学生が自ら考えてものづくりを行い、成果を評価する授業が主体だったという。

 例えば、ユニクロから「新しいTシャツをデザインしてほしい」という課題を出され、コンペで上位に選ばれた学生は、中国に行って工場の人とやりとりしながらTシャツを作って製品化される、といった具合だ。ものづくりの現場を目の当たりにし、そこで自分のデザイン力が生かされるかどうかを体験する。「誰のための、何のためのデザインかというところを学べたのは大きかった」と梶原さんは言う。

 この話を聞き、デザイナーという仕事は社会に役立つ価値を生み出すところにあり、RCAの教育は実践を通してそこを学ばせるところに意義があると思った。日本のデザイン教育でも行われていないわけではないが、アパレル業界は遅れている。また、参加企業が学生の出張費も含めた経費を負担する。業界の未来を担う人材育成を企業が当たり前のようにサポートするというカルチャー自体が、英国と日本では随分と違う。そして、こういう行為が業界の未来をつくっていく。日本も少しずつでも変わってほしいと願わずにはいられない。

 RCAの課題の中で、グアテマラの工場に行って残糸(布を機械で織るときの余り糸)を生かした布作りをすることがあったという。現地ならではの手織りの技を生かし、自分のデザインを盛り込んだ布を、工場の人とやりとりしながらやっとの思いで作り上げた。「工場の人と使い手の懸け橋として、デザイナーが役に立てる」という確かな手応えがそこにあった。これが、工場のものづくりに深く関わり、“作り手と使い手の懸け橋になる”という、梶原さんの今の仕事の原点になったのだ

日本の職人の生命線を広げていく役割

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