こんにちは。
皆さんはナイキ(NIKE)というブランドをご存知でしょうか?
知らない方はいない程の世界的ブランドですよね?
年間売上高が1兆2000億円、そして従業員数は約22,000人という巨大企業です。
ナイキ社のスニーカー以外を含むスポーツ製品は、全世界のスポーツ市場の中でなんと32%ものシェアを占めている超人気のブランドです。
今日はそのナイキ(NIKE)というブランぢがどのようにして生まれたのか?
またナイキ(NIKE)と日本の以外な関係性についてもお話していきます。
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選手とコーチの関係性
ナイキ創業者のフィル・ナイト氏は、オレゴン大学時代には陸上選手として活躍していました。のちにスポーツ界を牛耳る男は根っからのアスリートだったのです。
その後、陸軍への参加を経て名門スタンフォード大のビジネススクールに進学しますが、自分の精通することでビジネスプランを練るという課題において「日本のスポーツシューズは、カメラ分野と同じくドイツ勢に迫り勝てるのか?」といったテーマの論文を書いたことが知られています。
当初から日本の技術力の高さや(当時の)製造コストの低さに注目し、日本のスポーツシューズが世界に通用する可能性を感じていたのです。
実はその時に鬼コーチとしてフィル・ナイトを指導していたのが、後の共同創業者であるビル・バウワーマンでした。
ビル・バウワーマンは激しいトレーニングや根性論だけではなく、技術面の研究にも精通し、特にシューズの改良に異常な執念を燃やしていました。
コーチ時代から、自らシューズのアイデアをメーカーに売り込んだり、ついには自ら技術を学んで自分自身の手でランニングシューズを作っていたというので、その執念たるや恐ろしいものです。
自ら手がけた手作りシューズをテストがてら自身の教え子たちに履かせ改良を重ねた結果、そのシューズは抜群の性能を発揮。そして、選手たちに五輪出場などの数々の栄光をもたらし、業界関係者からの注目を集めていたといいます。
オニツカタイガーとの出会い
オニツカタイガー(現・アシックス)の創始者である鬼塚喜八郎氏とナイキ創始者のフィル・ナイト氏が出会うのは1962年11月。卒業旅行で日本の神戸に立ち寄ったフィル・ナイト氏はオニツカタイガーシューズの高性能と低価格に感激し、すぐさまオニツカ社に連絡。鬼塚喜八郎氏と直接面会し、米国西部での販売代理店契約が即座に決定したといいます。
鬼塚喜八郎氏はのちに語っています
「裸一貫で事業を始めたいとの彼の心意気に創業当時にリュックをかついで全国を歩いた自分の姿が重なり、この若者に思い切って販売店をやらせてみることにした。(日経新聞「私の履歴書」より)」
と。その当時、鬼塚氏は44歳、ナイト氏は24歳。海外進出という合理的な理由よりも「勢いのある若者の可能性を信じたい」という心意気で決断を下したのではないでしょうか。
BRS(ブルーリボンスポーツ)社設立
晴れて販売委託契約を獲得したフィル・ナイトは、かつての恩師でありシューズ開発の第一人者だったビル・バウワーマンと「ブルーリボンスポーツ社」を創業し、オニツカタイガーの米国での販売をスタートさせました。
創業当時は社屋も無く、クルマの荷台に山ほどシューズを載せて売りさばく行商屋状態でしたが、元々体育会系のアスリート思考のフィル・ナイトは、見る見るうちに業容を拡大して行きます。
しかし、販売こそ順調だったものの、拡大拡大と推し進めた結果、資金繰りは自転車操業で常に火の車でした。時には、公認会計士の資格を持つフィル・ナイトが、会計士のアルバイトをして食いつなぐこともあったとか。
販売を加速する一方で、フィルとバウワーマンは、オニツカの高い製靴技術を学び取っていきました。
1号店オープン
1966年にはサンタモニカに一号店をオープン、そしてようやく努力が結実して1969年にはBRS社の事業に専念できるまで成長します。
またこの過程において、一般的な代理店とメーカーの枠組みを超え、BRS社がアメリカ人にウケる機能性やデザインをオニツカ社に提案しオニツカ社が製品に反映するという密接な連携をとっていました。
特にコーチ時代からシューズの研究を重ねてきたバウワーマンは積極的に製品に対する指摘を行っていたそうです。このような良好な関係性がのちの争いにつながるとは両社ともに予想していなかったはずです。
コルテッツ誕生秘話
コルテッツの誕生は、ビル・バウワーマンの指導者人生の集大成といえるものでした。
ビル・バウワーマンがオレゴン大学の指導者だった頃、教え子の長距離ランナーで、オリンピックにも2度出場したケニー・ムーアがトレーニング中に不幸にも骨折をしてしまいます。彼はソックスの中に入れていた10セント硬貨でコーチに電話し、骨折したことを打ち明けた。ビルがケニーのランニングシューズを調べると、土踏まず部分にサポートがまったくないことに気づく。有望な選手だったケニーを再起させるためにビルが手がけた特製シューズが「コルテッツ」の原型となっているのです。
当時、通常では単一のスポンジ素材で設計されることの多かったソールに、2枚の柔らかいスポンジラバーと固めのスポンジラバーをサンドイッチのように挟み込んだ多層構造を採用しました。
これにより、クッション性能が格段に向上し、EVAソールが出回る前のランニングシューズ業界を席巻することになるのです。
また、このサンドイッチ構造はそのアピールのために色違いのものが接着されました。その結果、シューズの美しさをも演出することになり、ランナーだけでなくファッションアイテムとしても流行したのです。
またアッパーは、軽量化のためパーツ点数を減らし、縫製箇所を少なくしました。
高機能なソールと流線型のシンプルなフォルムは、より良い走りを目指したビル・バウワーマンの長年の試行錯誤の成果といえます。
ナイキの設立
蜜月と思えた、オニツカとブルーリボンスポーツ社の関係ですが、徐々に両社に思惑の違いが発生します。
ブルーリボンスポーツ社は、オニツカタイガーの販売を続けながら、その技術を学び取り、自前でのシューズ販売を画策し始めます。そこには、それまでナイトやバウワーマンが提案したアイデアがオニツカに採用されず撥ね付けられてきたことや、代理店業だけだと利益の上澄みしか取れないことなど様々な鬱憤があり、「下請けではなく自由にシューズを作りたい」という思いが芽生えたのでした。
一方のオニツカ側は、本社の意向をより反映しやすくし、全米でのさらなる拡販を進めるため、ブルーリボンスポーツ社と共同販売会社を設立する準備を開始していました。
下請けからの脱却を目指すブルーリボン社と、海外進出強化のため連携を強化したいオニツカ社との間で考えのズレが生じたのです。
そして、「タイガーコルテッツ」のヒットで自信を得たブルーリボン社は、ついにオニツカからの独立を求めて1971年に新ブランド「ナイキ」を設立。
設立に当たり、オニツカの技術者を大量に引き抜き、さらにはオニツカのライバル会社であるアサヒシューズに製造委託を行って、自社商品の製造販売を開始します。
技術者を奪われただけでなく、ライバル会社にサプライヤーを変えられ、まさに飼い犬に手を噛まれた格好のオニツカとはもちろん販売契約解消です。
アメリカ式のドライなジャッジと見ることも出来ますが、オニツカ側から見れば大変な裏切り行為ですね。
さらに、オニツカにとってショックな出来事は続きます。
「コルテッツ」を巡る訴訟騒動
オニツカとブルーリボン社の提携時代にリリースされ、すでにヒット商品となっていた「タイガーコルテッツ」。
ナイキは、自分たちの発案で製品化した「コルテッツ」をナイキ社の目玉商品として据え、「ナイキコルテッツ」として販売したのです。結果的に、同時期に「コルテッツ」が二種類存在するという状況が発生してしまいます。
そしてついに、この商品の帰属を巡って、オニツカとナイキとの間で訴訟が発生してしまったのです。
そもそも、コルテッツはフィル・ナイトとビル・バウワーマンの発案で商品化されたものですが、生産に当たってはオニツカの製靴技術が無ければ世に出てないものであり、「オニツカタイガー」の名を冠した商品です。
しかし、契約書の盲点を突かれ、オニツカは「コルテッツ」ブランドの帰属はナイキのものであるという訴訟を提起されてしまったのです。
そして、結局はオニツカサイドが折れて和解に応じ、1億数千万円という莫大な和解金を支払う羽目になりました。
技術者も引き抜かれ、海外販売の足がかりを外され、ブランド使用で訴訟も起こされるという、オニツカにとっては海外ビジネスと契約社会アメリカの授業料として、高すぎる代償を払うことになり、まさに踏んだり蹴ったりとなりました。
鬼塚喜八郎氏は、のちに日経新聞「私の履歴書」において
「BRS社と販売会社設立の計画を進めていたところ、日本の商社の勧誘で他のメーカーからの仕入れに切り替えてしまった。驚いた私はすぐに別の販売店と契約したが、日本の商慣習になじまないそのドライな行動に裏切られた気がしたものだ。」
「まずいことにBRS社が使っていたニックネームを引き続き使ったため、その使用権の帰属をめぐって対立、訴訟を起こされた。結局和解に応じたが、和解金額は弁護士費用を含め1億数千万円。海外展開するうえで良い経験だったとはいえ、高い授業料を払わされた。これが後に急成長したナイキである。」
と語りました。おそらく言葉にした以上の想いを抱えていたのではないでしょうか。
「オニツカタイガーコルセア」と「ナイキコルテッツ」
正式に「コルテッツ」がナイキの商標ということになり、オニツカはそれ以降「コルテッツ」を販売できなくなります。
その結果、誕生したのが「オニツカタイガーコルセア」です。
一方、ナイキはコルテッツを大々的にPRし、自社の目玉にラインナップに据えます。そして現在まで続くロングセラー商品に育て上げたのです。
「Nike (ナイキ)」というブランド名について
Nike (ナイキ)というブランド名は、ギリシャ神話に登場する勝利の女神ニケ / ニーケー (nike)から。それを英語読みして「Nike (ナイキ)」と名付けられています。
Nike (ナイキ)のロゴ「Swosh(スウォッシュ)」について
Nike (ナイキ) のロゴマークのスウォッシュ(スウッシュ)は1971年に商品登録をされています。前述のブランド名の元となったギリシャ神話の勝利の女神ニケ / ニーケー (nike) の彫像の翼をモデルにデザインされ、そこには「勢いよく動く」という意味が込められているそうです。その形状は確かに、Nike (ナイキ)を愛用する世界中のアスリート達のスピード感を表しているようです。この躍動的でスピード感溢れるブランドロゴは、当時ポートランド州立大学でグラフィックデザインを専攻していた女学生のキャロライン・デビッドソンがデザインしました。
(*実はこのロゴにもドラマがありました。)
ナイキ(NIKE)ロゴにまつわる物語
スウッシュ(Swoosh)とは、「ビューンと音をさせる」という意味の英語。
スウォッシュではありませんよ、「スウッシュ」です。
躍動的でスピード感溢れるブランドロゴは、当時ポートランド州立大学でグラフィックデザインを専攻していた女学生のキャロライン・デビッドソンがデザインしました。
スポーツシューズブランドらしいコンセプトと、ブランドの勝利の女神ニケの意味を上手く合致させて、非常にシンプルでかつ黄金比に基づいた美しいロゴマークに仕上がっています。
ナイキ創設者のひとり、フィリップ・ナイト氏が、彼女に対して、
「1時間2ドルでデザインの仕事をしないか?」と声をかけ、この伝説的なロゴは生まれました。
最終的にナイキがキャロライン・デビッドソンに支払った報酬はたったの35ドル。
大体5000円くらいで、何億人という人の記憶に残る素晴らしいロゴがデザインされたのです。
ざっくりと計算すると17時間半、1日8時間労働と考えると、およそ2日で仕上がったことになりますね。
ナイキもなかなかしてやったり。
ただ、フィリップ・ナイトは、キャロライン・デビッドソンの提出したロゴがどれも気に入らず、しぶしぶこのロゴを選択しました。
というのも、印刷の都合でロゴを早めに決める必要があったためです。
「今はこれが最良のデザインとは思わないが、時間がたてば馴染むに違いない」と彼女に言い、妥協の末の選択だったといいます。
これは予測ですが、スウッシュのようなミニマルなデザインがまだまだ受け入れがたい時代、もう少しデコラティブなデザインを求めたのかもしれませんね。
大学を卒業したキャロライン・デビッドソンは個人事務所を開き、引き続きナイキの広告デザインを手がけていましたが、ナイキがどんどん業績を上げ仕事量が爆発、彼女だけでは手に負えないほどになってしまいます。
そこで、彼女はナイキの仕事を別の広告代理店に渡し、全てのナイキのデザイン業務から手を引きます。
ナイキに振り回され、損な役回りとなってしまった感のあるキャロライン・デビッドソンですが、ここからさらにドラマがあります。
ナイキからのサプライズプレゼント
既にグローバル企業として成長した12年後のナイキ、そんなナイキ幹部と創設者フィリップ・ナイトが、キャロライン・デビッドソンを食事に誘います。
食事の目的は、キャロライン・デビッドソンへの感謝の気持ちを伝えることでした。
ナイキからはさらにサプライズプレゼントまで用意されていました。
- 自分がデザインしたスウッシュが刻まれたダイヤのついた金の指輪
- ナイキ社の株が贈られました。
1つ目は指輪、2つ目はナイキの株!
既に大企業に成長していたナイキの株ですから、その額は驚きのものであったと想像できます。
キャロライン・デビッドソンはこの時のことをこう話します。
「私のデザインの報酬には十分すぎるもの」
約5,000円で手に入れたブランドロゴが、世界企業へと成長させたと言っても過言ではないナイキのロゴの逸話です。
ナイキのその後の対応にも粋なはからいを感じます。
ロゴが企業を成功させることがあるという良い例ですね。
まとめ
ナイキ(NIKE)は奥が深いです!
歴史も長ければ、名作と呼ばれるシューズも数多くあります。
本日は以上になりますが。
またシリーズとして色々とお伝えしていきますのでお楽しみに♪
参考URL:
ロゴデザ:ナイキのロゴに隠された知られざる意味と制作費用について
スニーカーフリークス:ナイキの歴史や特徴とおすすめスニーカー
GQ Dictionary : ナイキとは
ファッションプレス:ナイキ
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