死ぬまでに一度は行くべき『長崎』〜おすすめ観光スポットのご紹介〜

COLUMN(コラム)
画像出典:トラベルJP
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おはようございます。モウリです

あなたは「長崎」に行った事はありますか?
先日連休を利用して家族で「長崎」へ旅行に行きました。

 

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「長崎」は観光地が近くに隣接しておりコンパクトなつくりをしております。
観光客にも優しいですね。
その上、歴史上私たちにゆかりのある土地なのに。
あまり行った事がない人も多いと聞きました。

そこで本日は

  • 「長崎」の魅力について
  • ここへは行っておけ!と言う観光スポットの紹介
  • 迷ったらこれな!の「長崎グルメ」

などなど。

「長崎」の魅力を伝えられたらなと思います。
「長崎」へまだ行った事がない人は。
死ぬまでに一度訪れてみてはいかがでしょうか?

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長崎について

まずはあまり『長崎』についてピンと来ていない人向けに。
長崎について簡単な概要をご説明したいと思います。

上記の動画は長崎観光連盟の公式チャンネルのものです。
こうやってみると、長崎って自然豊かで気持ち良い街だなって思いますよね?

個人的な印象としては貿易の街といった印象です。
まずはフランシスコザビエルをはじめとする、キリスト教の布教。
または、ポルトガルやオランダとの貿易も盛に行われておりました。

ちなみにChatGPTに質問してみると以下の回答が得られました。

長崎県は、日本の九州地方に位置する都道府県であり、長崎市が県庁所在地です。以下に長崎県の概要を簡単にまとめます。

  1. 歴史的な重要性:長崎は日本の海外貿易の拠点として長い歴史を持ち、17世紀から19世紀にかけてオランダやポルトガル、中国との交流が盛んでした。また、第二次世界大戦で原子爆弾が初めて投下された場所としても知られています。
  2. 観光地:長崎県は美しい自然や歴史的な名所が豊富で、観光地として人気があります。長崎市内の観光名所には、長崎平和公園や長崎原爆資料館、グラバー園などがあります。また、対馬や壱岐などの離島も魅力的な観光地として知られています。
  3. 文化と食:長崎県は様々な文化が交じり合う地域であり、西洋の影響を受けた建築やキリスト教の教会が点在します。また、ちゃんぽんや皿うどんなど、独自の料理文化もあります。
  4. 産業:かつては造船業や重工業が盛んでしたが、現在は観光業や飲食業が主要な産業となっています。また、長崎県は太陽光発電や風力発電など再生可能エネルギーの普及にも積極的です。
  5. 交通:長崎県は鉄道やバスなどの公共交通機関が充実しており、長崎空港もあるため国内外からのアクセスが便利です。

長崎県は歴史的な背景や豊かな観光資源、地域独自の文化と食を楽しむことができる魅力的な地域です。

めちゃくちゃあっていますね。
中国の影響も多くあります。
後ほど詳しく説明しますね。

結構街を歩いていると、西洋建築の建物が多くみられます。
また坂が多い街でも知られており、丘の上まで家が建っていますね。
個人的には上の人たちはどう生活するんやろうか?って思うけど。

あと車社会なのか、車があるとかなり便利です。
しかし路面電車が今でも走っております。


画像出典:https://www.yomiuri.co.jp/

これかなり便利です。
車がない方でも、電車を乗り継げばほぼほぼ行きたい場所へはたどり着きます。
僕も当日は電車で移動しました。
どこへ行くにも、140円でいけます。
安い!!

坂の上へは、ロープウェイなどもあるため。
車がない方でも安心ですね。
ただ車があれば、細かい箇所。
坂道の中や高台まで楽にいけますから、車があるに越した事はないです。

長崎に行ったら訪れたい場所

これは、僕自身が訪れた場所を元に解説して行きます。
僕は主に、長崎市を中心に観光したのですが。

長崎市内だけでも観光スポットはかなり多くあります。
さらに世界遺産も2つ程ありますから。
見て回りやすいと思いますよ♩

国宝『大浦天主堂』


画像出典:https://nagasaki-oura-church.jp/

幕末の開国後に長崎居留地に建設され、国内現存最古の教会として知られています。南山手グラバー通りに面して建ち、美しいステンドグラスが施されたゴシック様式の教会です。

1864年末に竣工した翌年3月、浦上の潜伏キリシタンが訪れ信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会であり、天主堂の正面は殉教地である西坂に向けて建てられています。

聖堂内のステンドグラスの一部は1879年の改築当時のもので、歴史ある荘厳な雰囲気に包まれます。レンガ造の教会ですが表面は漆喰で白く塗られています。1933年に国宝となりましたが、原爆による損傷の修復が完了した後、1953年に再度国宝に指定されました。 また、2018年にユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつとなっています。

隣接する旧羅典神学校や旧長崎大司教館は現在、キリシタン博物館として開館しています。長崎のキリシタン関連資料が展示されており、歴史上重要な資料を数多く見ることができます。
出典元:長崎県観光サイト

ここは、潜伏キリシタンがが訪れ信仰を告白した場所。
この教会自体は元々フランス人のジラール神父が建てました。

これ若干歴史を知らないと、なんで世界遺産なのか?
何がすごいのか?が理解できないかもしれません。
ある程度予習すると良いです。

大浦天主堂は、日本で現存する最も古いキリスト教の建物です。
なぜ“大浦天主堂”と呼ばれているかですが、大浦天主堂の正面に「天主」とあるところからきています。

天主は中国で使われていた言葉で“神様”を表し、宣教師たちが日本に来た時、“大浦天主堂”とつけて、日本で布教したいと考えたようです。

大浦天主堂は、「信徒発見」の場所となった、世界の宗教史上でも貴重な教会です。
この「信徒発見」は、浦上の潜伏キリシタンたちが宣教師に信仰を告白し、約250年ぶりにキリシタンたちの「潜伏」が終わるきっかけにもなりました。

大浦天主堂はパリ外国宣教会によって建設された居留地の外国人のための教会堂で、当時は“フランス寺”とも呼ばれていましたが、主任司祭であるプチジャン神父は教会の正面に日本語で“天主堂”という文字を掲げました。
そう、日本人信者の存在を意識していたのです。
その予感は見事に的中し、献堂式から約1ヶ月後の元治2年2月20日(1865年3月17日)、杉本ユリら浦上の潜伏キリシタンおよそ15人が訪問。
聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき「ここにおります私たちは、皆あなたさまと同じ心でございます。」(私達もあなたと同じ信仰を持っています)」と秘密を告白し、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。
プチジャン神父は大喜びですぐにフランスから持参していた聖母像の前まで導き、一緒に祈りを捧げたといいます。

これをきっかけに約250年の長きにわたり、長崎地方に潜伏し、信仰を守り続けてきたキリシタンの存在が明らかになりました。
この出来事は信徒発見と呼ばれ、全世界に驚きと感動を与えました。
浦上の潜伏キリシタンとプチジャン神父が祈りを奉げたマリア像は、現在も大浦天主堂正面に向かって右側の祭壇に見ることができます。

これ何で隠れていたかと言うと、日本はそもそも仏教。
幕府もキリスト教を禁止する法令を出していました。

ちなみに大浦天主堂は別名で、正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」と言います。
この二十六聖殉教者とは一体なんなのでしょうか?
この歴史を知るとかなり心が痛くなります。

殉教とは、キリスト教の信仰や道徳を捨てるよりも、死を選んで神に命を捧げることを指します。
「聖人」とは、生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人々のために、またその信仰を守るためにその命をささげるという殉教もその証明となります。


画像出典:https://www.sanpaolo.jp/

1596年10月、スペイン船のサン・フェリペ号が、フィリピンからメキシコに向かう途中嵐にあい浦戸に漂着します。この船は商船だったため、多くの積み荷を持っていましたが、秀吉の命令でその積み荷は没収されてしまいました。

サン・フェリペ号に乗っていたフランシスコ会士は、この件についてマニラ使節であったペドロ・バプチスタ司祭へ訴え、積み荷の返還を秀吉に求めました。そして、大坂奉行とスペイン人が積み荷のことで言い争っているとき、脅しの言葉、つまり「宣教活動の裏で他国征服の動きがある」といったほのめかしがあったのではないかと言われています。

このやりとりを聞いた秀吉は、「禁止されている教えを述べている」という理由だけで、クリスチャンたちを捕らえることにしました。

捕らえられたのはペトロ司祭をはじめ、フランシスコ会の宣教師たち6名、イエズス会のパウロ三木と2人の同宿、教会近くの信者15名(うち子供3名)の計24名でした。

殉教者たちは、見せしめとしてまず京都で左耳たぶをそがれ、牛車で町中をひきまわされました。伏見や大坂でも同じように扱われ、1597年1月10日大坂から長崎まで殉教の旅がはじまりました。冬の厳しい寒さの中、後ろ手に縛られながらの徒歩の旅です。

罪状の書かれた高札をかかげられていましたが、権力者秀吉のもとを離れ、祈り、神を賛美しながら行く道は信仰によって支えられていました。パウロ三木は道中、キリストの教えを伝え続け、まだ14歳だった*4トマス小崎は、母親へ感動深い別れの手紙をしたためています。また、殉教者最年少の*5ルドビコ茨木は棄教の勧めをはっきりした態度で断っています。

そして旅の途中、信仰を証しするかのように新たな2名の殉教者が加わりました。

長崎に着いた彼らは、最後に赦しの秘跡を求めましたが願いは聞き入れられず、1597年2月5日処刑がはじまりました。場所は長崎西坂の丘(現在の西坂公園)、26の十字架が立ち並び刑場には4000人の信者が見守っていました。

十字架につけられた26人は賛美歌を歌い、パウロ三木は罪状に対し、「私たちはキリストの教えを信じ、説いたために殺されるのです。しかし、太閤様も役人様も神の教えに従って心から赦します」と宣言しました。

こうして殉教者たちは4人の役人によって、左右から順番に槍で胸を突き刺されていきました。

日本26聖人殉教者は1627年に列福され、1862年 ピオ9世によって列聖されています。また殉教地は、1950年ピオ12世により公式巡礼地へ指定されました。

26聖人にささげられた教会は大浦天主堂(日本最古の木造ゴジック造り)、そして列聖100年を記念して彫られた26聖人の祈りの姿の記念碑は特に有名です。
出典元:https://www.pauline.or.jp/

さて話は戻り、大浦天主堂の見所をいくつかご紹介しておきます。


画像出典:nagasaki-tabinet.com

まずは外観です。
大浦天主堂は真っ白な外観をしていますが、実はレンガ造りの教会なんですよ。

大浦天主堂はゴシック建築です。
ゴシック建築とは、中世の中期から後期のヨーロッパを発祥とする建築様式のこと。
特徴としては尖ったアーチや、内部を明るく保つためにステンドグラスを多用しているところです。
高いアーチは心を高いところまで上げ、神様に向けさせるという意味が込められていますよ。


画像出典:travel.rakuten

大浦天主堂は内部も洗練された美しさです。
外観だけ見て帰ってしまうのはもったいないですよ。
大浦天主堂内イチの見どころでもある、高さ3mの「十字架のキリスト像のステンドグラス」は圧倒的な存在感です。
正面祭壇奥に掲げられています。
その美しさは息をのむほど素晴らしさ。
廊下側や高窓にも色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれているので、教会内を明るく保っています。

また、教会の入り口中央に置かれているマリア像も必見です。
「日本之聖母像」とも呼ばれ、全世界に「日本に多くの潜伏キリシタンたちがいた」という情報が伝えられた際、フランスから記念に贈られました。
内部を見学する時間もとって、素晴らしい空間を堪能してみてください。

大浦天主堂についてはこちら

世界遺産に登録された人工島:端島(軍艦島)


画像出典:nagasaki-tabinet

長崎港から船で約40分のところに位置する端島(はしま)。小さな海底炭坑の島は、岩礁の周りを埋め立てて造られた人工の島です。岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。最盛期の1960年には約5300人もの人が住み、当時、日本一の人口密度を誇っていました。島内には小中学校や病院などを完備、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もあり生活の全てを島内で賄うことができたそうです。

端島炭坑の石炭はとても良質で、隣接する高島炭坑とともに日本の近代化に大きく貢献しました。しかし、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより衰退の一途をたどり、1974年に閉山。島民はさまざまな思いを胸に島を去り無人島となりました。

2009年に一般の方の上陸が可能となり、現在では多くの方が上陸ツアーに参加して軍艦島を訪れています。 2015年7月世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・製鋼、造船、石炭産業~」として正式登録されました。
出典元:長崎県観光連盟

日本の近代化を支える炭鉱の一つで栄えました。
確か三菱が島の権利を買い取って、軍艦島へと発展していったんですよ。

最盛期に5000人以上の人が暮らしていたというのが凄いですね。
面積は63,000㎡で、東京ドーム1.4倍分。
世界一の人口密度らしいです(笑)

あと島内は、割と快適で。
買い物やお酒を嗜むなど、現代と同じような娯楽が楽しめたそうです。


画像出典:軍艦島コンシェルジュ

男性は飲酒、パチンコ、麻雀、ビリヤード、囲碁・将棋、釣り。
女性はショッピング、ファッション、井戸端会議などを楽しんでいました。
また、その昔、成人男性の遊び場、遊郭まであったそうです。

会社が経営する「購買会」と「個人商店」で、生活必需品に困ることはありませんでした。


画像出典:軍艦島コンシェルジュ

「購買会」は生活必需品が市価より安く、食品、衣料品、化粧品、タバコ、時計、生活雑貨など販売。
端島銀座に面していた端島消費生活協同組合(生協)の売店では、健康器具の販売キャンペーンなども行なわれていました。
島外からもハサミ研ぎやコウモリ傘の修繕を手掛ける職人、金魚屋などが商売に来ていました。

幼稚園〜小・中学校もありました。


画像出典:軍艦島コンシェルジュ

最盛期の小中学校の生徒数は1,169人でした。
日本一高い階層の小中学みたいです。

屋上庭園もあったそうです。


画像出典:軍艦島コンシェルジュ

木造5階建ての旧14号棟の屋上を先駆けとして、16~18号棟の全体の屋上は庭園化されました。

あと病院もあったみたいです。


画像出典:軍艦島コンシェルジュ

医療体制は医師9名、看護師14名、薬剤師1名でした。
一般病床と結核や伝染病といった隔離病床をあわせて58床に増床。定期検診も実施されました。

お祭りもあったそうです。

画像出典:軍艦島コンシェルジュ

奉納相撲や奉納踊りなど、昭和館(映画館)ではアトラクションが催され、祭りの華である神輿は端島神社の神主の祈祷を受けた後、若い人たちに担がれて島中を練り歩きました。

前年の台風9号と12号と当年の大火災により意気消沈する島民たちを気づかい、1957年(昭和32年)だけは例年より1ヶ月遅れの5月に開催されました。

山神様を祀る端島神社の神殿の下には拝殿があったが、倒壊。
現在は祠だけが残っています。

あと生活水準も他より高かったみたいです。

画像出典:gunkanjima-excursion

三菱の私有地になった軍艦島では、住居は社宅や寮の扱いでした。
そのため、島民は高収入が約束されている上に、生活費が安く済んだことから、裕福な暮らしを楽しみます。

例えば、昭和30年代の家電ブームの時は、既に100%電化生活と恵まれた生活を送っていました。
また、それを証明するのがテレビの普及率。
当時のテレビの販売価格は3〜6万円台にも関わらず、1958(昭和33)年には、ほぼ100%に到達しています。同時期の平均月収の約1〜2カ月分なので、炭鉱の給料は高額でした。

 

僕は当日クルーズ船で軍艦島へ向かったのですが。
波が高く上陸する事が出来ませんでした(涙)
ですから、外観だけを見て終わったんですよね。

観光用のクルーズ船では、外観を見る事は勿論の頃。
上陸して、島内を見学できます。
海の荒れ具合によりますが、運がよければ上陸する事ができます。

是非、一度訪れて見てはいかがでしょうか?

あとは、軍艦島資料館などもあります。
僕は、軍艦島デジタルミュージアムと言う所で見学しましたね。
合わせてチェックして見てはいかがでしょうか?

軍艦島についてはこちら

異国情緒あふれる長崎屈指の人気観光スポット:グラバー園


画像出典:at-nagasaki.jp

長崎港の大パノラマを見下ろす南山手の丘に位置し、異国情緒あふれる長崎屈指の人気観光スポットです。 国指定重要文化財の旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅をメインに、市内に点在していた6つの明治期の洋館を移築し復元しています。居留地時代の面影を残す石畳や石段が、歴史や文化の香りを一層引き立てています。園内各所が花々で彩られており、いつどこを切り取っても絵になる空間ばかりです。

長崎市のランドマークである稲佐山を背景に長崎港を一望できる絶好のロケーションも自慢です。開港直後の偉人たちがこの絶景に魅せられたという話しも納得です。

訪れた際にぜひ探して欲しいのが、石畳の一画にあるハートストーンです。「この石に触れて願い事をすれば恋が叶う」 など恋愛成就にまつわる伝説があるパワースポットだとか。洋館群がライトアップされる7月中旬~10月初旬は、昼間とは違うロマンチックな雰囲気を味わえるのも魅力です。

レトロ写真館で気軽に衣装をレンタルして撮影するのもオススメ!マダム・バタフライにちなんだメイク用品や四葉のクローバーをあしらったオリジナルグッズも人気でお土産として喜ばれています。

園内は長崎特有の坂の多い地形のため、動く歩道やエスカレーターを設け、回遊道路をめぐらしています。それによりさまざまな年代の人々に親しまれており、年間を通して多くの観光客で賑わいます。
出典元:長崎市公式観光サイト

グラバー園から見える長崎港は格別です。

画像出典:じゃらん

長崎港を始め、長崎の街を一望する事ができます。
なんか夜中までやっているみたいで。
夜は、ライトアップされて幻想的な姿を見る事ができるみたいですよ♩
僕は日中に訪れたので、緑豊かな大パノラマしか見ていないです。


画像出典:長崎公式観光サイト

夏場に訪れるなら夜の方が良いかもしれませんね。

ここの注目はやはり、重要文化財に指定されている『旧グラバー住宅、旧オルト住宅、旧リンガー住宅』ですね。

建物以外にも幕末の兵学者・高島秋帆の指導により造られた「高島流和砲」や、明治時代の水道共用栓、旧英国領事館跡に建てられた「旧スチイル記念学校」などがあり、歴史ロマンと当時の暮らしぶりを感じられる施設になっています。

▽旧スチイル記念学校▽


画像出典:グラバー園

旧グラバー邸

「旧グラバー住宅」は文久3(1863)年に建てられた、現存する日本最古の木造洋風建築です。
玄関を設けていない建物、とされていましたが、現在では、温室のある側の扉を当時は玄関として使用していたのでは、と考えられているそうです。
建物は日本の寸法で作られ、洋風の装飾が施されているそうですが、まぁ素敵なこと!広く窓を設けた温室に、部屋に面した庭、レンガ製の煙突…。
まだちょんまげ姿も多い日本において、この建物はどう映ったんでしょうね。


画像出典:at-nagasaki.jp

トーマス・ブレーク・グラバーについて


画像出典:tokyoflyfishing

グラバーは1859年(安政6)9月19日、21歳のとき開港して間もない長崎に訪れました。来崎当初はジャーディン・マセソン商会の代理人ケネス・ロス・マッケンジーの仕事の補佐でしたが、マッケンジーは天津条約(1858年)により中国が開港すると、漢口での業務に向けて長崎を去り、全ての業務をグラバーに託しました。グラバーは20歳前半の若さでジャーディン・マセソン商会の代理業務を担うこととなり、1862年(文久2)グラバー商会を設立しました。

グラバーは貿易商人として主に茶や生糸を輸出し、西南諸藩の需要に応じて布類や香辛料、鉄材などのほか、中古の蒸気船や武器を輸入品として扱いました。また日本人の英国留学の援助を行い、五代友厚率いる薩摩藩の19名の藩士が英国留学を果たし、彼らは帰国後日本の近代化を盛り立てました。そのほか、大阪造幣局の開設や現在の「キリンビール株式会社」の前進会社であるビール会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の設立にも尽力。そして1908年(明治41)、70歳のときに近代日本に貢献をしたとして叙勲を受け、その3年後東京の自邸で死去しました。現在グラバーは長崎市の坂本国際墓地で妻のツルと共に眠っています。

出典元:グラバー園

めちゃくちゃ簡単いいえば、貿易商人ですね。
武器やお茶などを輸出入していた人です。

結構偉業をたくさんなされた方なので、この方のみで1記事出来上がると思いますね(笑)。
例えば、キリンビールの創業者でもあります。
五代友厚、森有礼、寺島宗則、長澤鼎らの海外留学や伊藤博文・井上聞多らを含む長州五傑のイギリス留学の手引きも行なっている。

あとは、日本初の蒸気機関車も試験走行成功させていますし。
高島炭鉱開発も行なっている。
三菱をグローバル企業へと発展させる手助けも行っている。

調べると奥が深いですよ♩

ちなみにオペラ「蝶々夫人」のモデルとなったのが。
グラバーの奥様でおあられる、ツルさんと言われております。
グラバー園内に蝶々夫人の像などもありますね。


画像出典:kokontouzai.jp

この蝶々夫人の物語も知っておくと、グラバー園は楽しめると思いますよ。
3年ぶりに帰ってくる夫を不備さしております。
ちなみに左手の先は、長崎港が見えます。
その後、蝶々夫人は自殺してしまうのですが。
この物語は、ご自身で確認して見てください。

旧リンガー邸


画像出典:https://glover-garden.jp/

建物の構造は、木造に外壁を石造とし、天草の砂岩を使用し、ベランダの床にはウラジオストクから運んだ御影石を敷いています。
正面中央が出入口で、廊下左右に4室を配置し、厨房とメイド部屋が附属しています。

この住宅には明治から昭和にかけて、イギリス人のフレデリック・リンガーとその家族が親子三代で暮らしました。
旧リンガー住宅が建つこの敷地はトーマス・グラバーの弟アレキザンダーが1864年(元治元)に永代借地権を取得し、1868年(明治元)に住宅を建てました。フレデリック・リンガーが借地権と建物を取得したのは1874年(明治7)で、結婚を機に1883年(明治16)から妻のカロリーナと暮らし始めました。住所の「南山手2番」にちなみ、「NIBAN(2番)」という愛称を付けました。

リンガーが死去したのち、1913年(大正2)からは次男シドニー・リンガーが住みました。
戦時の混乱を経て、1965年(昭和40)まで家族と暮らしましたが、1965年(昭和60)長崎市へ売却し、シドニーはイギリスで余生を送りました。
出典元:グラバー園


自宅の庭でくつろぐシドニー・リンガー父子。左から、長男マイケル、シドニー、次男ヴァンヤ

フレデリック・リンガーについて


画像出典:グラバー園

中国・九江で茶葉検査官を務めていたフレデリック・リンガーは、1865年(慶応元)にグラバー商会に招かれ、長崎で製茶と輸出を監督の業務を行いました。1868年(明治元)11月、グラバー商会を退職し、イギリス人の同僚エドワード・ホームと「ホーム・リンガー商会」を設立。大浦11半番地に事務所を構え、グラバー商会の茶葉貿易を引き継ぎました。そのほか明治・大正・昭和初期を通じウラジオストックなどの海外の各港との貿易業、各国商社代理業務にも携わりました。また、長崎における英字新聞の刊行やホテルの経営のほか、長崎市内の上下水道敷設にも尽力。社員であったグラバーの息子倉場富三郎と共同で国内初のトロール船による漁業を行いました。一方で、リンガーはベルギー、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどの名誉領事に就任し、長崎の国際交流にも力を注いでいます。

リンガーは晩年までこの住宅で過ごしましたが、1907年(明治40)イングランドのノーリッジへ一時帰郷中に死去。リンガーは現在、ノーリッジの墓地で両親と早世した妹の隣で眠っています。
出典元:グラバー園

リンガーは、明治の産業経済に大きな功績を残した方ですね。
個人的な印象は、漁業を変えた人ですね。

以前までは、チョロチョロと漁業を行っていたのですが。
馬鹿でかいトロール船で、一気に魚を獲ると言うやり方。
これは、他の漁業者から避難を浴びたそうですが。
その後、日本の漁業の変化に貢献したんじゃないかな?と思いますね。


画像出典:https://blog.goo.ne.jp/memoriesonthesea

旧オルト邸


画像出典:グラバー園

この建物は、大浦天主堂の建築者と同じ天草出身の大工小山秀之進によって建てられました。秀之進旧蔵の設計図には、英語で室名と寸法に日本の尺寸が書き加えられており、設計者が外国人、建築者が日本人であることが伺えます。残された設計図より、室内は、Verandah(ベランダ)、Entrance(出入口)、Drawing Room(応接間)、Dressing Room(居間)、Passage(廊下)、Bedroom(寝室、4室)、Bath(浴室、4室)などからなります。

建物は大規模で、木造に外壁は天草の砂岩を使用しています。正面にある噴水は建築当初からあり、車寄せのポーチや、トスカーナ風列柱のベランダが特徴です。一方で、裏手にある附属屋はレンガ造りになっており、その先にある崖沿いには、岩盤をくりぬいた貯蔵庫が残っています。
出典元:グラバー園

僕が訪れた際は、ちょうど工事中で
見ることはできませんでした(涙)

ウィリアム・オルトについて


画像出典:グラバー園

この住宅の最初の主人であったオルトは1859年(安政6)、安政の五か国条約で開港した長崎に来ました。そして居留地であった大浦海岸通りに事務所を建設し、翌年に「オルト商会」を設立しました。オルトは貿易商として活躍し、製茶業で財を成しました。また、居留地自治会の初代議長を務めるほか、居留地の商工会議所の最初の議長も務めました。オルトは、妻エリザベスと二人の娘とで明治元年までこの家で過ごし、その後は大阪や横浜に滞在したのち、イギリスに帰国しました。エリザベスは長崎で過ごしたことを「長崎は本当に美しいところで、これ以上美しい所を私は知らない」と回想録の中で記しています。

オルトがこの住宅を去った後、この建物はメソジスト派の活水女学校の校舎や、アメリカ国領事館として使われました。1903年(明治26)からはリンガー家の所有となり、フレデリック・リンガーの長男一家が太平洋戦争勃発まで暮らしました。1943年(昭和18)には川南工業に売却され1970年(昭和45)に長崎市が買収しました。
出典元:グラバー園

オルトのおかげで、日本のお茶が世界のお茶になったと言えますね。
ジャパニーズティーを世界に広めた方です。

てか3人とも貿易商人ですよね?
共通しているね、と言うことはこの時代貿易業が儲かっていたのかな?

グラバー園についてはこちら

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論語でお馴染み『長崎孔子廟』


画像出典:ながさき旅ネット

長崎孔子廟は『論語』で知られる儒学の祖、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりです。1893(明治26)年に中国清朝政府と華僑によって建造され、その後幾度かの改修を経て現在に至ります。彩り豊かな極彩色で中国建築様式の伝統美きわまる廟宇(びょうう)は、一歩足を踏み入れた瞬間華やかな中に厳かな空間が広がります。

国内最大の孔子坐像を祀る大成殿やひとつとして同じ顔のない七十二賢人の石像は、圧巻で荘厳な雰囲気。  併設の中国歴代博物館は、北京故宮博物院をはじめ中国各地の博物館が所蔵する国宝級の貴重な文物を常時展示しています。また史料館には長崎孔子廟が所蔵する関連資料や多数の銘品を展示。孔子や孔子廟のことを学ぶには絶好のスポットです。

中国の伝統芸能であり、その仕掛けは国家機密とされる「変面」。長崎孔子廟には2名の変面師が所属しており、イベントなどでその伝統を披露します。年間を通じて様々な式典や祭典が行われ多くの観覧客で賑わいます。
出典元:長崎市公式観光サイト

ここあまり知られていないスポットの1つですね。
この箇所だけあまり観光客がいませんでしたね。

パスポートなしで入れる中国とも言われております。
その理由は、土地所有権を中国政府が持っているからですね。

中国歴史博物館内には、中国から送られた国宝級の展示品が数多くあります。


画像出典:長崎市公式観光サイト

特に故宮博物院提供の美術品に関しては、中国国外ではここでしか観る事ができません。
皇室の展示品は、1年おきに入れ替えられるため。
次に訪れても新鮮かもしれませんね。

孔子について

儒教文化は、中国、韓国、日本の根底に流れるひとつの潮流である。礼を重んじ、祖先を敬う。他の思想に比べると、より模範的な倫理観を重視すると思われがちだが、その始祖である孔子自身が、シャーマニズム的思想を持っていたことは意外に知られていない。

紀元前551年、春秋時代にあった中国で孔子は生まれた。姓は孔、名は丘、字は仲耳(ちゅうじ)。父は武人である孔紇(こうこつ)、母の顔徴在(がんちょうざい)は「儒」と呼ばれる呪術師の家系であり、正式な結婚ではない野合の子であったという。父が3歳の時に亡くなり、孔子は農作業を行いながら、貧しい生活を送った。過酷な環境にあったが、強靱な肉体と明晰な頭脳を持った青年は、15歳にして学への志を持つようになる。

20歳を過ぎた頃、穀物を管理する村役人として採用された彼は、独学によって知識と教養の研鑽に努めた。彼にとっての師は、儒の一族による「裏の学問」と、古の賢人達が残した君子の政治学だった。孔子は、狭義のシャーマニズムの限界を知り、人間と社会全体に思いをはせるようになる。次第にその学識は世に知られるようになり、彼のもとで学びたいという若者が集まるようになった。孔子は役人を辞め、中国史上初の私塾を開くことを決意する。また、彼自身も政治の中枢に参画して、自らが信ずる正しい道を実現したいとの宿願を持つようになった。「三十にして立つ」とは、自分の運命を見いだし、対峙する決意を固めたことを表している。

孔子の評判は高まるばかりだった。しかし、政治の表舞台に立つ道はなかなか開けなかった。自身が生まれ育った魯の国内でも、また、隣国の斉に自分自身を売り込みにいっても、なぜか宰相になることができない。焦りといらだちが彼を苦しめた。孔子の「四十にして惑わず」という言葉は、そんな自分自身を諫め、より本質的な次元を求める姿勢を自分の中に確立した、ということかもしれない。

その孔子が、「五十にして天命を知る」と言い切ったのは、どんな状況の変化の現れだったのだろうか。たしかに52歳から56歳まで、孔子は念願だった魯の国の大司冦となっている。当時、孔子には、常に行動を共にする弟子達がいた。『論語』は、この弟子達との問答を主に記したものだが、その中で孔子が最も信頼していたのが、顔回だ。顔回は「一を聞きて十を知る者」と孔子に言わしめた若き弟子だが、その名が示すとおり、儒の一族の出である。孔子は、「鬼神は敬して遠ざける」と言い、万人がよりよく生きていくための知恵を説いた人だが、その根底には、やはりスピリチュアルな力についての思想が流れていたことが考えられる。天の意志を受けて現実を動かすためには、スピリチュアルな流れが必要だった…。その後、顔回が若くして夭折した時、「天は我を滅ぼせり」と号泣したという伝説も残っている。

孔子が政界に君臨したのは、わずか5年。その後は、時の敵対勢力の弱体化に失敗し、主だった弟子を従えて魯の国を去り、衛・曹・宋・鄭・陳などの諸国を十四年間にわたり放浪した。晩年は、教育と古典の整理に従事した。そして弟子達に見守られながら、74歳でこの世を去った。

彼が説いた教えの中で最も重要なのは、「仁」と「礼」という考え方である。「仁」とは、天の流れを生かし、自己の欲求から離れ、相手を思いやる心。無為自然ともまた違い、自分からそうするという主体性がそこにはある。また、天と人間を結ぶ共通のルールを「礼」として表現した。人間が感性のままに行動すれば、多くの混乱や矛盾が生まれる。しかし、「礼」を守ることによって、人智を超えた難しい局面も自ずと乗り越え、正しい道へ進んでいくことが可能になると説いた。人間が現実の中で生きていくための知恵。それは2500年もの時を超えて、今もなお息づいている。
出典元:https://www.bookclubkai.jp/

聞く所によると、孔子の身長は2メートルあったそうです。
デカイですね!

ちなみに「論語」は数多くの偉人に影響を与えました。
例えば、徳川家康。
自ら論語を学ぶだけでなく、武士に論語を学ばせました。
論語を基盤として多くの企業や団体の設立に関わった渋沢栄一などは、論語の実践者として有名です。
日本人の精神を「武士道」という書物で世界に発信した新渡戸稲造。
農民聖人と言われた二宮尊徳。

皆が論語を読んでいます。
さらに現在でも起業家や政治家にも読まれている名著ですね。
一度読んで見てはいかがでしょうか?


画像出典:長崎市公式観光サイト

ちなみに儀門(ぎもん)といわれる本廟の正式な内大門を抜けると、孔子の高弟72賢人を模した石像が、正殿である大成殿(たいせいでん)の奥まで並んでいます。
これらは全て大理石でできていて、一体の重さはなんと約1.5t。
2年がかりで今の位置に整列させたのだといいます。
それぞれが、役職に見合った衣装を身にまとい、表情や動きも全く違うので、じっくり観察してみましょう。
お気に入りの賢人を見つけての記念撮影もお忘れなく。

長崎孔子廟についてはこちら

本格的な中華料理を食べるなら:長崎新地中華街


画像出典:長崎公式観光サイト

横浜・神戸と並ぶ日本三大中華街のひとつ、長崎新地中華街。 JR長崎駅から路面電車にゆられて10分足らずで到着というアクセスも便利な定番の観光スポットです。江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立てて作られました。

東西、南北あわせて約250mの十字路に中華料理店をはじめ、中国菓子や中国雑貨など約40店舗が軒を連ねています。

異国情緒漂う街並みを楽しみながら見た目のキュートな中華スイーツや角煮まんじゅうの食べ歩きはいかがでしょうか? 長崎名物「ちゃんぽん」や「皿うどん」は、店舗それぞれに個性豊かな味わいがあり、食べ比べに挑戦するのもオススメ! 中華食材雑貨店は上海や香港直輸入の食材など豊富な品揃えでお土産選びの時間も楽しくなりますね。

毎冬開催されるランタンフェスティバルでは約15,000個のランタン(中国提灯)が中華街を幻想的に彩ります。一般的な提灯の他に、芸術的な大型ランタンオブジェも展示され見応えたっぷり!また特設会場では本場中国の舞踊や、伝統的楽器の演奏が楽しめます。もともとは旧正月を祝う春節祭として始まった催しですが、今では長崎の冬の風物詩として知られる人気のイベントとなっています。
出典元:長崎公式観光サイト

やはりここで欠かせないのが、長崎ちゃんぽん、もしくは皿うどん。


画像出典:長崎公式観光サイト

独特の麺や新鮮で豊富な野菜と魚介の風味が堪能できる長崎自慢の味を、ぜひ一度食べて見てください。
また、近頃注目を集めているのが、角煮を独特の饅頭ではさんだ角煮まんじゅうです。
店によって名称が多少異なりますが、もともと長崎の中華料理の一品だったものです。
食べやすく改良されて人気がアップしています!
饅頭を蒸す湯気が立ちのぼっている店も増えて、食欲が刺激されます。
ほかにも中国菓子の店や、中国直輸入の雑貨や食材を扱った店もあります。
特に上海や香港直輸入の食材はおすすめです。


画像出典:長崎公式観光サイト

ちなみに僕は、2日間かけて2店舗食べました。
お店によって味付けやラインアップが違うので。
食べ歩くと良いですね♩

名店はいつも混んでいますので、昼間だと割と空いてると思いますよ。


画像出典:長崎公式観光サイト

狙い目は、ランタンフェスティバルの日が良いかもしれません。
主に、旧正月である春節に行われる事が多いです。
2月くらいですね。
街がランタンで綺麗な風景が見られると思いますよ♩

長崎新地中華街についてはこちら

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日本三大名橋の1つ:眼鏡橋


画像出典:長崎公式観光サイト

1634(寛永11)年、興福寺の黙子如定(もくす にょじょう)禅師が架設したとされている眼鏡橋。川面に映る影が双円を描き「メガネ」に見えることからこの名前がついたと言われ、東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられます。 1982年の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され、国の重要文化財に指定されています。

水位が低い時は、階段を使って川縁に降り水際を散策できるようになっています。眼鏡橋をはじめとする中島川護岸にあるハートストーンは恋愛成就のパワースポットとして注目されているので、訪れた際にはぜひ探してみてください。

長崎の冬の風物詩、ランタンフェスティバルの時期には、眼鏡橋周辺も提灯で華やかに飾られ普段以上に多くの人で賑わいます。
出典元:長崎公式観光サイト

国の重要文化財に指定されております。
この橋に使われております石ですが、中国から渡ったと言われております。

最近は、ハート形の石が見つかったのが。
SNSでバズって恋人同士で行く聖地にもなっております。


画像出典:長崎公式観光サイト

僕が行った際も、カップルがこのハートのところで記念写真を撮っていましね。
この中島川と呼ばれる川に、橋がかかっているのですが。
中島川には、12個の石橋がかかっております。
しかも狭い感覚で!

その中で、最も有名なのが眼鏡橋なんですね。

眼鏡橋を架設したのは、興福寺の2代目住職・黙子如定(もくすにょじょう)と言われています。
元々は興福寺へ訪れる人たちのために架けられた橋だったんです。

興福寺は眼鏡橋の近くにありますが、目の前ではありません。
興福寺へ向かうための橋なのに、どうして目の前に架けなかったんでしょうか?

唐寺は、山門から本堂までを見通しができないように、敢えてずらして配置をしているのですが、これを伽藍(がらん)配置と言います。
伽藍配置には、【魔除け】の意味があるそうですよ。
そのため眼鏡橋は、興福寺の参道なのに少し離れたところにあるんですね~。

ちなみに奈良県の興福寺については別記事でも解説しております。
併せてご確認頂ければと思います。

眼鏡橋についてはこちら

原爆の恐ろしさと平和を世界へ発信する:長崎原爆資料館


画像出典:長崎公式観光サイト

1945年8月9日 午前11時2分。 広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域上空で原子爆弾が炸裂し、付近は一瞬のうちに廃墟と化し約15万人の尊い命が奪われました。 この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過や核兵器開発の歴史などを紹介し、被爆から現在までの長崎の復興の様子をストーリー性のある展示を交えながら、核兵器のない世界の実現に向けて平和を発信しています。

被爆直後と現在の長崎の風景写真を比較すると、目覚ましい勢いで復興した長崎の街と長崎市民の逞しさがひしひしと伝わってきます。 「原爆、戦争なんて遠い昔のこと」とはいえない現在の世界情勢。各展示物に正面から向き合うと同時に“悲惨な歴史”を受け止め、真の平和について考える意義深い時間を過ごせるでしょう。 原爆・平和関係の図書閲覧ができるほか、ビデオコーナーを設置した図書室も併設しています。 館内にある喫茶店(ピースカフェ)は、ドリンクや軽食・スイーツなど充実したメニューを提供しているので、見学後のリラックスタイムを過ごすことができます。
出典元:長崎公式観光サイト

資料館へ入ってすぐに見えるのが、11時2分で針が止まっている時計です。


画像出典:長崎公式観光サイト

爆心地から約500mに位置する浦上天主堂は原爆によってほとんどが倒壊、焼失しました。
館内の展示ゲートにはこの浦上天主堂の聖堂の南側残骸の一部を再現した側壁を再現しています。
熱線と炎で黒く変色した聖像、爆風でずれた石柱などから当時の惨状が視覚的衝撃として迫ってきます。
また、爆心地近くでは、熱線のすさまじいエネルギーによって燃えるもの全てが火をふきました。
溶けたガラス、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった神社の玉石。
そして人々の皮膚に浴びせられたわずか数秒間の高熱線は、通常の火傷では考えられない被害をもたらしました。


画像出典:長崎公式観光サイト

 

僕自身は広島出身という事もあって、

小さい頃から原爆資料館や被爆者のお話を聞いたりしていたので。

理解はしていたのですが、初めて観る方にはかなりショッキングな映像や資料などもあります。
ただこう言う事が実際にあったと言う点では、一度ご確認頂きたいです。
そして平和を祈りたいです。

広島の原子力爆弾に比べて、長崎の方が強力だったみたいです。
しかしながら被害は、広島よりも低かったらしいです。
それは、中心地よりズレた場所に投下されたのと。
地形が坂道の多い傾斜な作りをしていたからだと言うのです。

広島が投下れたのは、全国で知れ渡っていたので。
標的にならないように、工場でしょうか?
スモックなどで、地上が見えないようにしていたっぽいんですね。
だから、中心地よりズレたそうですね。

ちなみにローマ法王が数ある写真の中から、「長崎の原爆で亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ1人の少年の写真」と言う写真を選び、世界へ平和のメッセージを送っております。


画像出典:https://www.gunjix.com/

終戦後に長崎に進駐した米軍の従軍カメラマン故ジョー・オダネル氏が撮影した「焼き場に立つ少年」というタイトルのこの写真を昨年バチカンを訪れた田上長崎市長がフランシスコ法王に直接手渡した。
この写真を見た法王は「写真を見て胸を打たれた。このような写真が千の言葉よりも多くを語る。
だから分かち合いたいと思った」とこの写真を用いてローマ法王庁のクリスマスカード(上の写真)を作成して昨年末に配布した。
法王はカードの裏面に「戦争が生み出したもの」という言葉を記載し、「幼い少年の悲しみはただ、血のにじんだ唇をかみしめるその身ぶりの中にのみ表現されている」という短いキャプションと法王自身の名をサインしている。
アメリカCNNのバチカン担当記者ジョン・アレン氏は「フランシスコ法王が年末年始の休暇期間中に特定の画像を配布するよう依頼したのは今回が初めてだ。
これは法王が、写真のメッセージがいま特に重要だと考えていることを示唆している」と語った。
出典元:https://www.gunjix.com/


画像出典:東京新聞

「焼き場に立つ少年」のパネル写真を傍らに置き、演説で核廃絶の必要性を訴えるローマ教皇フランシスコ=2019年11月、長崎市で。

この写真は原爆資料館の出口付近最後の最後で観る事ができます。

長崎原爆資料館についてはこちら

原爆犠牲者の冥福と恒久平和を願う祈りの空間:平和公園(平和祈念像・平和の泉)


画像出典:長崎公式観光サイト

原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられました。

長崎市民の平和への願いを象徴する平和祈念像。(高さ:9.7m 重さ:30t 材質:青銅 制作者:北村西望氏)

制作者は長崎出身の彫刻家で、この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。 毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。

「平和の泉」 (直径:18m) 原爆のため体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいきました。その痛ましい霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いが込めて浄財を募り建設された、円形の泉です。1969年(昭和44年)に完成し、平和公園の一角、平和祈念像の前方に位置しています。 被爆し水を求めてさまよった少女の手記を刻んだ石碑が正面に設置されており、当時の惨状を重々しく映し出しています。 平和の鳩と鶴の羽根をイメージした噴水が舞い、平和祈念式典の前夜には数多くのローソクが灯され、犠牲者を悼む催しも行われます。
出典元:長崎公式観光サイト

平和公園電停側の入口から石段を上ると、平和の泉に出ます。
これは、原爆による熱風を浴び、熱さにもがき苦しみ水を求め亡くなっていった被爆者の霊に捧げられたものです。
正面の石に刻まれているのは、被爆当時9歳だった山口幸子さんの手記です。
「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」
当時の惨状がありありと浮かんでくるようです。


画像出典:長崎公式観光サイト

長崎の鐘は、平和公園にあるモニュメントです。
原爆により亡くなった人達の冥福を祈るため、原爆投下から33回忌にあたる1977年に作られました。

被爆地だった場所には、魚雷や戦車などを生産する工場がたくさんありました。
そこでは、動員学徒、女性挺身隊とよばれていた中学生や女学生がたくさん働いていました。

二度と原子爆弾が使用されないようにと願い、この鐘を鳴らし続けることによって平和の確立を世界に訴えるために作られた鐘です。

平和公園についてはこちら

国指定史跡:出島


画像出典:長崎公式観光サイト

徳川幕府の命により築造された人工の島「出島」。 1636年に完成し約200年もの間、わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。明治期に役割を終えた出島の周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形は姿を消しましたが、1951年長崎市が出島の復元整備を開始し、現在までに16棟の建物や景観が当時の姿を取り戻しました。まるで19世紀の初めにタイムスリップしたかのような空間が広がります。

2017年には、出島表門橋が完成し昔と同じように渡って出島に出入りできるようになりました。夜になるとライトアップされ周辺一帯の魅力をより一層高めています。

江戸時代の生活を模した部屋や発掘調査で出土した資料などが展示されているほか、明治時代から残る洋館での食事、四季折々のイベントも楽しめ、長崎を代表する観光拠点として人気を集めています。

門番などに扮した歴史スタッフが案内するガイドツアーに参加したり、着物をレンタルしてレトロな街並みをバックに写真を撮ったりと、粋な気分を味わえます。
出典元:長崎公式観光サイト

出島の中は、鎖国時代と開国時代の2箇所で分かれた形ですね。

鎖国時代は下記のような雰囲気。


画像出典:長崎公式観光サイト

レトロなイメージのある建物。
その中でもカピタン部屋がメインかな?


画像出典:長崎公式観光サイト

「カピタン部屋」は、江戸時代に東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者である「商館長」の住居兼事務所で、ターコイズブルーの洋風デザインの階段に和風造りも合わせた特徴があり、出島の中では最も大きい建物でした。

建物内の大広間では日本の役人や大名をもてなす部屋として使われ、商館長の食料物品の倉庫がある1階の中央には通り抜けの土間も用意。
現在の建物内では、出島の模型や当時の交易品、当時の生活の様子が再現されています。

ちなみに、カピタンはポルトガル語でキャプテンの意味です。
そのままカピタンという名前で使用しております。


画像出典:thegate12

出島に「一番蔵」から「三番蔵」まで3つ並ぶ蔵のうち「二番蔵」は「チューリップ蔵」とも呼ばれ、主要な輸入品でもあった染料に用いる植物の蘇芳(すおう)という木の枝である「蘇木(そぼく)」が保存されていた倉庫です。

現在は「貿易と文化の交流」をテーマに、出島に出入りしたさまざまな貿易品、当時の書物や工芸品などを紹介する展示場となっています。

そして開国後の世界は下記のようです。


画像出典:長崎公式観光サイト

洋風な建築が目立ちます。

出島の東の端にある「旧出島神学校」は、1878年に建てられた現存するわが国最古のキリスト教(プロテスタント系日本聖公会)の神学校です。
オランダ人だけが出島で通商を許されたのは、カトリックではなく、新教プロテスタント系だそう。

1859年から新教も本格的な活動を始め、1875年にこの場所に出島教会が建てられ、隣接する形で神学校が造られました。
現在は、「出島史料館本館」として活用され、料金所や出島売店・休憩室などもあります。


画像出典:長崎公式観光サイト

「旧長崎内外クラブ」は、スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーの息子の倉場富三郎と、横山寅一郎、荘田平五郎等が、長崎在留の外国人と日本人の社交の場として1899年に設立した「長崎内外倶楽部」があった場所で、イギリス人のフレデリック・リンガーが1903年に建てた英国式明治洋風建築です。

その後、長崎市が1968年に建物を買い上げ、現在は1階がレストラン、当時のゲームなどができる体験展示室、2階が居留地時代の展示室になっています。


画像出典:長崎公式観光サイト

表門の左手には出島の中にある「ミニ出島」ゾーンがあります。
シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀が描いたとされる「長崎出島の図」を参考に、1976年に長崎市が15分の1の模型に再現しました。
現在は埋め立てられて扇型の面影が残っていない当時の出島の様子を「ミニ出島」で俯瞰できます。

 

出島については歴史を調べてから行くと面白いです。
初めはポルトガル人が暮らしていたのですが。
その後はオランダ人が暮らしております。

当時は、禁教令が発令しておりました。
キリスト教の布教を阻止するために当時市内に雑居していたポルトガル人を収容する島をつくりました。
これが出島です。
出島は、寛永13年(1636)に「出島町人」と呼ばれる25人の町人の共同出資によって完成した人工の島で、この25人の町人たちはいずれも長崎を代表する豪商でした。
出島は、海を埋め立てて築いた島ということから「築島(つきしま)」、その形状が扇型をしていたことから「扇島」とも呼ばれていましたが、海の中に島をつくるという発想、工事の設計・監督にあたった人物、その土木技術の詳細については、現在でも謎に包まれています。

ちなみに、出島は一度埋め立てられました。
その後、再度削り取って今の人工の出島ができました。

歴史だけでも1記事書けそうですが。
この辺で、終わらせておきます。
気になる方は、個別に調べて見てね♩

出島についてはこちら

まとめ

本日は以下について解説いたしました。

  • 長崎について→日本の経済発展の礎となった地。貿易を始め西洋の文化が色濃く残る。
  • 長崎に行ったら訪れたい場所→『大浦天主堂』『軍艦島』『グラバー園』『長崎孔子廟』『長崎新地中華街』『眼鏡橋』『長崎原爆資料館』『平和公園(平和祈念像・平和の泉)』『出島』

今回僕が行った場所を中心に紹介しましたが。
他にも有名な観光スポットは多くあります。

気になっていたのは、坂本龍馬との関係が深い『亀山社中』。
その他、天草四郎との関係が深い島原。
五島うどんが有名な五島列島などなど。

とても短期間では行けない場所が多いですね。
あとは、佐世保バーガーなんかで有名な佐世保市もありますね。
伊王島などでは、リゾート気分も味わえます。
ハウステンボスも有名ですね。

気になる方は併せチェックして見てね♩

本日も最後までお読み頂き誠にありがとうございます。

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