6月19日は「父の日」!父親との思い出と感謝を

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もうすぐ6月19日ですね。
6月19日は「父の日」として知られています。
日頃、感謝を伝えていない人はこの日だけでも感謝を伝えていこう。

そこで僕の父親との思い出を話していこうと思います。
幼少期の父親との思い出を探りながら。
確かこんな人だったな?ってね。
そこで疑問を持った人は鋭いね。

ここから読み進めていけば、その理由がわかります。
今日は、「父の日」にちなんで父親とのエピソードをお話しさせてください♩

父親との思い出の前に

僕は父親との記憶がかなり薄い。
なぜかというと、僕が小学校3年生の時に癌で他界したからです。

ですから小学校3年生以降は、母親と兄弟・祖父母に助けられながら成長してきた。
もっとも母親には今でも感謝しており、僕たち兄弟を大学まで進学させるために。
それまで専業主婦として家に居た状態から、いきなり社会に飛び出し。
シングルマザーとして働いて、僕たちを養ってくれたからだ。

また母親も倒れて、緊急手術をし。
生死を彷徨うまで行った時もあった。
その時の僕は、まだ中学生にもなる前だった気がします。
なんとか一命を取り留めて、また家の中では笑顔で振る舞って居ました。

しかしながら、大変なのは承知しており。
ストレスの影響で髪の毛が減ったり。
家に帰って僕たちが寝ている間も仕事を遅くまでしている姿もあった。
でも僕たちの前では笑顔で振る舞って居て。
すごく強い母親で、今でも尊敬しているし、感謝の気持ちでいっぱいです。

では父親との思い出は何か?
父親もすごく優しかった印象です。
ここからは、父親との思い出を振り返って。
僕の父親ってこんな人だったな!と思い出していこうと思います。

1番の思い出は「こんぴらさん」

詳しくは、あまり聞いていないのですが。
父親は、大手建設業界で働いていました。

かなり実績もあり、どこまでの地位をいったのかは定かではないですが。
部長、常務、専務まではいっていたかと思います。
名の知れたホテルやビルなども手がける位ですし。
部下からも信頼もあるリーダーだったと思います。

僕が小さい時は、週末などでは家族で過ごす事が多くあった記憶があります。
家族旅行では、「シンガポール」に行った時もありましたね。
僕は小さすぎて、あまり記憶はありませんが。
心霊スポットで写真を撮った記憶があります(笑)

とはいえ、現役時代は仕事も忙しく。
しっかりと父親と会話したりゆっくりしたりする時間ってなかったのかな?なんて思います。
実は、父親との思い出が深いのは、小学校2年生〜3年生位ですね。
僕は後から知ったのですが、医師からは余命宣告を告げられていたらしいです。
祖母から聞いたのですが、「あんたの父ちゃんはね、余命半年(記憶が曖昧ですが確か:3ヶ月〜半年って言われた記憶)って言われてたのに、1年半も生きたんよ。凄いよほんと」ってね。

ですから、医師から余命を告げられてからは。
会社へは行かず、家族と過ごす時間を多く作っていたのだと思います。
他界する前の2年間位は、父親と過ごす時間が長かった記憶があります。
僕は小学生ながらに、父親と一緒にお風呂に入ったり。
遊んだり、会話したりってゆっくり過ごす事ってあまり無かった気がするので。
一緒に過ごすのは、本当に楽しかった記憶があります。

関西の人あるあるですが、土曜日の昼は吉本新喜劇を見て笑う。
ご飯を一緒に食べるなんて時間も多く。
普通の家族の時間を最後の2年間は濃く過ごしていた記憶があります。


画像出典:https://thegate12.com/jp

その中でも、思い出深いのが。
香川県にある「金刀比羅宮」へ行った記憶ですね。
長い石段を時間をかけて上り「こんぴらさん」で親しまれているんですが。
階段の数が、合計1368段の石段を上ります。
これなんで記憶があるのか?と言われれば。
家族写真を撮ったからです。


画像出典:https://4travel.jp/

今でも家に飾ってあるから、記憶が新しいんです。
家族全員で杖を持って登っていましたね。

父親は、サラリーマン時代は髪の毛もフサフサだったのですが。
薬や手術の影響で、坊主でした。
そのため、写真を見返して坊主の時はすでにがんを発症していた時期やったんやな。ってわかります。
それでも家族には優しくたくましい父親でしたね。
この「こんぴらさん」の時も、父親は坊主でしたから。
ガンと戦いながら、合計1368段の石段を登っていたのかと考えると。
凄い人だなと思います。

子供が偉い椅子に座る

ある日の週末、父親と市内に行った時です。
※広島市民は、繁華街や本通り付近を総称して市内と呼びます

なぜか?父親の会社へ行ったのを覚えています。
週末だったので、誰もいません。
何か書類を片付けるのか?何かを持って帰るのか?は定かではないのですが。
多分、自分のデスク周りを整理していたんでしょうね。

そこで小学生ですから、その退屈な時間に駄々をこねていたら。
内緒で支店長だったか一番偉い人の椅子に座らせてくれた記憶があります(笑)
何か子供ながらに感動していた気がします。
椅子が大きく、硬い印象でしたね。


画像出典:ボスベイビー

感動していたら、「行くよ〜」って聞こえて。
そのまま会社を出た記憶があります(笑)。
今なぜ?それを覚えているのか?はわかりませんが。
その感触というか、感動が深かったんでしょうね。

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優しい父親の姿へ

確か「サファリパーク」に行った記憶もあります。
あとはお幼馴染家族と僕の家族合同で大分の別府旅行に行った記憶もあります。

なんせ小学生3年生までの記憶をたどっています。
もちろん、姉の方が記憶は多くあると思います。

そんな父親はどんな人だったのか?と聞かれると。
優しい父親でした。

でも会社員時代は、厳しい昭和の頑固オヤジって印象です。
色んな事ですごい怒られていた印象ですね。
でも坊主になってからは、凄い優しかった印象があります。
人が変わったのか?位で優しかった記憶がありますね。
ずっとギャグとか変んな事して笑かしてくれた印象です。

ただそんな父親がすごい人やったんやな。って思うのは。
父親が亡くなってからです。
父親の影響力というか、人望というか。
「父親にはすごいお世話になって」とか。
「父親はすごい人だった」とか。
「父親はこんな人でこんな事やったんだよ」とか。

第三者というか、周りから父親が凄く慕われている。
そして、父親が亡くなった後も感謝を告げる人も多く。
毎年、御墓参りもしてくれる人もいます。
父親が携わった、建築物を見たり。
エピソードを聞いたりすると。
僕の父親ってすごい人やったんや!って思いました。
周りの誰しもから、父親の悪口を聞いたことがありません。
むしろ、尊敬や感謝の言葉を聞かされます。
また僕の幼少期みたいに、武勇伝もあるそうです(笑)

僕の幼少期の悪ガキ話はこちらでも読めます。

それってすごい事だなって改めて思います。
しかもそれって、会社以外もです。
例えば、親戚からもコミュニティからも、地元の人たちなど。
色んな人から聞いても、僕の父親は誰からも慕われている人でした。

僕は、小学3年生までの記憶しかないので。
あまりそこまで意識はしなかったのですが。
大人になって振り返ると、それって凄い事で凄い人やったんやな。って思います。

僕は、父親の影響なのでしょうか?
今でも「愛」を持って人と接しています。
『他人に優しく己に厳しく』

絶対に人の悪口を口にしない。
愛情を持って接する。
他責ではなく自責。原因自分論。

ここから僕はずっと言い続けている「他者想い」が根付いたんだと思います。

あなたにもこの「他者想い」を根ざして欲しいです。
きっとポジティブなサイクルに循環していきますよ。

まとめ

本日は以下について解説していきました。

  • 6月19日は「父の日」→日頃の感謝を伝えましょう
  • 父親との思い出の前に→小学3年生の時に、癌で他界
  • 1番の思い出は「こんぴらさん」→家族写真を飾っており、この時ガンを発症していながら合計1368段の石段を登る、優しくてたくましい父親
  • 子供が偉い椅子に座る→支店長の椅子に座る感動
  • 優しい父親の姿へ→第三者からの人望が厚く、慕われていた。父親の影響で、「他者想い」は生まれている

本日は、父親とのエピソードを語っていきました。
6月19日は、「父の日」です。
あなたは日頃感謝を伝えていないのであれば、感謝を伝えましょう。

父親と過ごす時間を当たり前と感じず、感謝と優しさを持って。
時間を共有することを強く願います。

僕はすでに小学3年生から父親と会う事ができませんが。
今生きていたら、きっと「ありがとう」と伝えると思います。

本日も最後までお読み頂きありがとうございました。

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