おはようございます。モウリです
あなたは「CHANEL(シャネル)」をご存知でしょうか?
世界的に有名なメゾンの1つですよね?
知らない人はいないんじゃないでしょうか?
ただ同じようなハイブランドとして知られる、「ルイ・ヴィトン」や「エルメス」などとは少し違ったニュアンスで成長してきました。
「ルイ・ヴィトン」や「エルメス」などは、王侯貴族などの御用達ブランドだったところからきているに対し、シャネルはココ・シャネルという孤児院出身の女性デザイナーがたった一人で築き上げてきたブランドだというところです。
また「CHANEL(シャネル)」には、2つの強いブラドコンセプトが存在します。
- 1つ目は、女性の服の解放
創業当初、ヨーロッパの女性の服のスタンダードはコルセットとバルーンスカートでしたが、これは男性の理想の服を着ているに過ぎませんでした。
これを変えたのが、シャネルの服です。
窮屈なコルセットを廃止し、機能性に優れた女性が着やすい服をデザインしました。
シャネルにレディースしかないのは、女性のための服というコンセプトを反映しているからなのです。
厳密に言うとメンズはあるのですが、あくまで「女性から男性への贈り物」という想定で販売されています。
ここまで徹底してレディースにこだわるのは、シャネルのコンセプトの現れと言えます。
- 2つ目が、古い価値観にとらわれない自由で自立した女性像
シャネルのもう1つのコンセプトは、「古い価値観にとらわれない自由で自立した女性像」です。
黒の概念を覆したり、コルセットを廃止したりというアイディアは、このコンセプトによるものです。
シャネルは、黒に特別なこだわりを持っています。
創業当初、黒は喪服の色としてタブーとされていましたが、それをファッションに取り入れてモードの最先端の色と再定義したのがシャネルだったのです。
今でも黒はシャネルのコーポレートカラーとして、多くの製品に使用されています。
本日はそんな「CHANEL(シャネル)」の魅力に迫っていこうと思います。
- 「CHANEL(シャネル)」はどのようにして生まれたのか?
- 「CHANEL(シャネル)」を支えたキーパーソンについて
- 今後の「CHANEL(シャネル)」について
などなど最後まで目が離せない内容ですよ♩
シャネルの始まり
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シャネルの歴史を語ろうとするときには、大きく分けて2つの時代を語る必要があるでしょう。
ひとつは、ココ・シャネルの生存していた時代、そしてもうひとつは、ココ・シャネル亡き後、ヴェルタイマー一族がシャネルを指揮し、デザイナーとしてカール・ラガーフェルドがココの後を引き継いだ後の時代である。
生誕からシャネルを立ち上げるまで
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シャネル創業者のココ・シャネルは1983年にロワール地方のソーミュールに生活用品の行商を行う父と病弱な母のもとに生を受けました。
しかし、病弱な母が病に倒れると父はココら子どもたちをリムーザン地方のオバジーヌにある修道院併設の孤児院に預けるとそのまま帰ってこなくなってしまいました。
この時点ですでにココの激動の人生は始まっていました。なんと父に捨てられたのです。
ココは、孤児院から一緒だったアドリアンヌとともにフランス中部のオーベルニュ地方の都市ムーランで歌手として生活をしていくことになります。
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ココ・シャネルの「ココ」というのはガブリエル・シャネルの愛称で、現在ではココ・シャネルという愛称の方がはるかに有名ですが、この頃からガブリエルが歌うと「ココ!」という喝采を受けていました。
アドリアンヌが結婚して一人になってしまったので、客として来ていたバルザンの大邸宅に転がり込み愛人となったのですが、そこでバルザンの友人である青年実業家カペルと出会うのです。
カペルとの恋に落ちたココでしたが、カペルは実業家であったため事業のために別の女性との政略結婚を選択します。
シャネルとアーサー・カペル
ココは、カペルの愛人となることを受け入れ、その後も愛を育んでいきカペルの出資によって1910年にカンボン通り21番地に帽子専門店「シャネル・モード」を開店するに至りました。
今では場所がカンボン通りの31番地に移転しているが、シャネルの本店です。
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母には早くに亡くなられ、そして父に捨てられ、愛人からまた愛人へと幸せを掴めないながらも自身の店を出すというところまでこぎつけました。
しかし、ココは裁縫や針仕事は修道院で習っていたのですが、ファッションは独学でデザイン画も描けませんでしたが、貧しい生い立ちが彼女の反骨精神を鍛え上げ、美しいもの、贅沢なものへの執着を生んだのではないかと思います。
▽シャネル誕生秘話については映画でも学べますよ▽
成功の狭間で、度重なる運命のいたずら
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1913年には、ドーヴィルにモードブティックを開きます。
シャネル・モードは帽子専門店だったため、モードブティックとしては第1号店となりました。
ただし、このモードブティックは1916年にはカンボン通りのシャネル・モードがオートクチュールに変わったのを気に吸収されています。
しかし、ココの人生は本当に悲しみと挫折の連続でカペルとの愛を育み、店も軌道に乗り始めた矢先の1919年になんとカペルが交通事故で亡くなってしまうのです。
一代でシャネルというブランドを築き、時代を代表する女性デザイナーであり、起業家でもあったココは仕事をすることで悲しみを乗り越えます。
立ち上げ当初は当然ですが、資本があるはずもなく、時代も時代ですので手工業的な展開にとどまっていましたが、1921年にシャネルの5番として今でも人気となっている伝説的な香水「No.5」生み出し、ビジネスとして発展していきます。
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しかし、如何せん手工業では限界があるので、ここで手を組んだのがピエール・ヴェルタイマーでした。
パリの有名百貨店「ギャラリー・ラファイエット」の創業者であるテオフィル・ベイダーの紹介で知り合ったのですが、この出会いが後にシャネルの事業を引き継ぐことになるヴェルタイマー一族との最初のコンタクトです。
ピエールは、フランス最大の香水、化粧品企業のオーナーだったため、資本力もあり、生産や流通ノウハウも持っていました。
このピエールの支援をうけて1924年にシャネル香水会社を立ち上げました。
▽ピエール・ヴェルタイマー▽
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その後、ヴェルタイマーが自社の化粧品をシャネルブランドで販売し始めたことにココ・シャネルが怒り、シャネル香水会社を辞任にするという形で軋轢があり、この和解までには相当な時間がかかっています。
こうしたいざこざはありながらも、シャネルは香水以外にも本来のクチュリエの仕事として「リトルブラックドレス(LBD)」や「シャネルスーツ」といったシャネルの象徴ともなるような人気アイテムを生み出していき、その名声を高めていきました。
▽リトルブラックドレス(LBD)▽
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実はこの時代にも数々のロマンスと不運がココを襲っています。
ロシアの作曲家ストラヴィンスキーとのロマンスやウエストミンスター公爵からプロポーズを受けたりもしました。
ウエストミンスター公爵からのプロポーズは悩みに悩んだ結果としての答えが「ウエストミンスター公爵夫人は3人いるけど、ココ・シャネルは1人しかいない」という実に清々しいものでした。
また、不運なことは重なるもので1930年にハリウッド映画での衣装及びスターたちの普段着をプロデュースするためアメリカに渡った際にイラストレーターのポール・イリブと恋に落ちたのです。
がしかし、この恋も1935年にポールがテニス中に急に心臓発作で倒れ、亡くなってしまうのです。
最愛の人カペルに続き、またしても恋人と「死」という形で別れを告げる事になってしまったのです。
▽ここら辺は下記の映画でも垣間見れます▽
空白の15年間
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第2次世界大戦の勃発により、ココ・シャネルは香水とアクセサリー部門を残してパリのブティックを閉鎖せざるを得ませんでしたが、戦乱中もココはパリにとどまり、ヨーロッパにシャネルの香水を販売していました。
一方でアメリカに逃れたヴェルタイマーはアメリカでシャネルブランドの香水を販売していました。
第2次世界対戦中のこの時代というのは、2つのシャネルがアメリカとヨーロッパに存在していたことになります。
こうした状態がココ・シャネルとピエール・ヴェルタイマーの溝を一層深くする事にもなりました。
感情論から見れば、ココ・シャネル側が正当なシャネルだと思うところもありますが、実際のシャネルのブランドという観点で見るとヴェルタイマーはシャネル香水会社の株式の大半を持っているわけで正当なシャネルブランドはどちらかと言われるととても難しいところでしょう。
ただ、香水「No.5」の原料となるジャスミンや薔薇のエッセンス、レシピを戦時中のグラース地方からアメリカに退避したのはピエール・ヴェルタイマーであり、これがなければシャネル自体がなくなっていたかもしれないし、アメリカでのシャネルブランドの拡大にも大きく貢献したことは間違いありません。
そして、No.5の普及によってアメリカでの地盤が確立していたことにより、ココが1954年にコレクションを復活させた際のブレイクの一因になっていることもまた確かでしょう。
1940年にドイツ軍によってフランスが占領されてもココはパリにとどまり、ドイツ軍将校の愛人になったりもしています。
1944年のフランス解放後はスイスのローザンヌにて亡命生活を送っています。
大成功の最中から一転してどん底へと落ちていったココ、しかしシャネルブランドはヴェルタイマーのおかげでアメリカで成功を収めていました。
和解そして、クチュールの復活
マリリン・モンロー
第2次世界大戦が終了し、1954年に70歳を超えた段階でココはパリのブティックを再開します。
しかし、フランスにおいては「1930年代」の亡霊と揶揄されるなど、全く撮り合ってももらえないレベルでした。
このブティックの再開にあたり、なんとピエール・ヴェルタイマーからの支援を受けているのです。
ピエールからしてみれば、ココのクチュールの復活によって香水事業に対してポジティブな影響があるという算段もあったのですが、とはいえ敵対していた2人が歩み寄ったことによってシャネルというブランドが大きく軌道に乗り始めます。
この時に運が良かったのが、マリリン・モンローが「寝るときにつけるのはシャネルの5番だけ」という発言があったり、故ジョン・F・ケネディ元大統領が暗殺された際に妻であるジャクリーン・ケネディの着ていた服がシャネルのピンクのスーツであったりと想定していないメディア効果があり、シャネルの露出が飛躍的に高まったのです。
▽ジャクリーン・ケネディ▽
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アメリカにおけるシャネルの人気は爆発し、「シャネルルック」として定着していきます。
アメリカでのビジネスをきっかけに、ヨーロッパにおけるビジネスも復活しました。
ココ・シャネルの復活によってブランドの名声が高まったことに喜んだヴェルタイマーとは、完全に和解することになります。
▽マトラッセ▽
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この復活以降、ココはシャネルのアイコンともなっている「チェーンベルトバッグ」や「バイカラーシューズ」といった名作を次々と生み出していき、1971年に87歳でその生涯を終えました。
晩年にはココは、カンボン通り本店の斜め向かいにあるリッツ・カールトンホテルを住居代わりにしていたが、最期はそのリッツのホテルの部屋でコレクション準備から戻って就寝したまま永眠することになりました。
本当に激動の87年間を生きたココ・シャネルという人物は、生み出したファッションのインパクト、その交友範囲や男性遍歴の華やかさ、また波瀾万丈な生涯と聞く人を虜にするような人生を歩んでいます。
ファッションによって女性の新しいライフスタイルを切り開いたココ・シャネルは、「20世紀を代表する女性」として後世に語り継がれていくのです。
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そして、ココ亡き後のシャネルはヴェルタイマー一族が100%の権利を所有する企業になったのです。
ルイ・ヴィトンやエルメスなど一貫した歴史を築いているブランドは創業者一族が経営を続けているのですが、シャネルにおいてはココ・シャネルが天涯孤独であったため、こうした創業者とは全く違う一族が実権を握るということになっているのです。
ただ、このココ・シャネルの魂は次の世代に受け継がれていきます。
それが、カール・ラガーフェルドという天才デザイナーです。
ココ・シャネル亡き後の空白期間「凋落」
ココ・シャネル亡き後、カール・ラガーフェルドという天才デザイナーがシャネルのデザインを一手に引き受けることになるのですが、ココが1971年に亡くなってからカールがアーティスティック・ディレクターに就任する1983年までの間に空白期間が存在します。
この空白期間というのは、シャネルにとってはあまりいい時代ではありません。
ピエール・ヴェルタイマーはココが亡くなる6年前の1965年にはすでに他界しており、その後を継いだのが息子のジャックでした。
ジャックは、あまりシャネルのビジネスには興味がなくラグジュアリーブランドとしてのシャネルのイメージを守るということを全く行わなかったのです。
経営者がこうした体たらくを見せていたため、シャネルのブランドイメージはどんどんと落ちていき、アメリカで絶大な人気を誇り、アイコンともなっている香水「No.5」でさえも2流の古くさいものだと思われるようになったのです。
ココ・シャネル亡き後の空白期間「立て直し」
▽アラン・ヴェルタイマー▽
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こんな状態を覆したのが、ジャックの息子アラン・ヴェルタイマーです。
当時25歳だったアランはシャネルブランドの危機的な状況に対して、1975年に自らがジャックの後を継ぎ、シャネルブランドの再生に乗り出しました。
まずは「No.5」のドラッグストアからの撤去です。
管理できない流通網には商品を流さないといのはラグジュアリーブランドの基本です。
こうした基本的な対策とともに多額の広告費を投じてブランドイメージの復興も行ったのです。
そして、この時期に化粧品事業やプレタポルテ事業にも乗り出したのです。
アランの活躍のおかげで、ココ亡き後のシャネル凋落の危機をなんとか踏みとどまったのです。
皇帝「カール・ラガーフェルド」によるシャネルの隆盛
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カール・ラガーフェルドという人物は、ピエール・バルマンやジャン・パトゥといったオートクチュールメゾンで仕事をした後、クロエ、フェンディと渡り歩き、そして1983年にシャネルのアーティスティック・ディレクターに就任しました。
いくらか持ち直してきていたとはいえ、カールがシャネルに就任した時にはシャネルというブランドはまだまだ過去の栄光にすがっているような状態でした。
こんな状態のシャネルに対して、カールはシャネルというブランドを利用して全く新しい価値を生み出そうとしたわけではなく、ココ・シャネルを再生することを試みたのです。
悪いのはブランディングであってココ・シャネルの魂ではありません。
▽カール・ラガーフェルドについては映画でも学べます▽
皇帝「カール・ラガーフェルド」とは?
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カールはスウェーデン人の父とドイツ人の母のもとに生を受けました。
生まれたのは1930年代だと思われ、諸説あるのですが自身の年齢について公開していないので実年齢は不明です。
父親が事業に成功していたため、比較的裕福な家庭で育った彼は、パリで教育を受け、絵画と歴史を学んでいます。
父も母もとても身なりにこだわりを持っており、良い服装を身につけることがとても重要と考える人たちでした。
こうした環境で育ったカールが自然と身につけるものに対して徹底したこだわりを持つことは自然な事だったのかもしれません。
この頃はまだファッションの世界に足を踏み入れてたわけではなかったのですが、初めてファッション業界から注目を浴びたのは1955年のファッションデザインコンテストのことでした。
コート部門で見事優勝を飾ったのです。
ちなみにこの時のドレス部門の優勝がイブ・サンローランだったことを考えるといかにレベルの高いコンテストだったかが分かります。
その後は、ピエール・バルマンで修行を積み、オートクチュールの老舗ジャン・パトゥのデザイナーも努めました。
しかし、まだ陽の目をみることはなく、今の皇帝の面影もないような状態でした。
ジャン・パトゥで5年間デザイナーを務めた後にフリーになり、数々のブランドでデザインをしますが、特に有名なのはクロエでしょう。
クロエとの関わりは深く、複数のブランドのデザインを掛け持ちしながらも長期的にクロエのデザインには携わっています。
このクロエでの仕事が認められ、徐々に頭角を現してきたのです。
しばらくイタリアに渡り美術の勉強をしていたのですが、そこでもティツィアーニのプレタポルテラインの立ち上げやフェンディのチーフデザイナーを務めるという活躍をしました。
▽クロエ時代▽
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シャネルでのキャリアの開始
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カール・ラガーフェルドがなぜシャネルのデザイナーを務めることになったのかというのはあまり触れられることはありませんが、カールをシャネルに引き抜いた功績という点ではキティ・ダレーソによるところが大きいのです。
キティ・ダレーソというのはシャネルグループのCEOにまで登りつめた人物で、もともと広告会社でシャネルの広告を扱っていたダレーソはシャネルの復権には新しいデザイナーの起用が絶対に必要だと確信していました。
ダレーソは、クロエでのカールの仕事に着目し、シャネルの影響を受けた片鱗も全く感じられないカールの独創的なデザインに可能性を感じ、カールの採用を決めたのです。
カールはシャネルのデザイナーに就任した時にはすでにココ・シャネルのデザインした洋服のすべてがインプットされていて、ココ・シャネル、またその歴史についても誰よりも詳しかったと言われている。
まさにスーパーコンピュータのような思考回路をもつ彼は、シーズン毎に思考をフル回転させココの歴史からインスピレーションを受けてコレクションを発表しています。
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カールは就任当初、オートクチュールのデザインを担当しました。(すぐにプレタポルテやアクセサリーも担当するようになるが)
カールの生み出すオートクチュールの超高級シャネル・スーツをモナコのキャロライン王妃やヨルダンの王女、イヴァナ・トランプといった世界中の女性が憧れるようなセレブリティが愛用することによって、名声や価値がブランドイメージへと波及していきました。
オートクチュールで得た名声によって、香水、革製品やアクセサリー、化粧品といったシャネルのポートフォリオにとてもよい影響を与え、シャネルは香水のトップブランドへと返り咲いたのです。
▽カロリーヌ・ド・モナコ妃▽
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こうした成功があって、時計や靴、コスメ、アクセサリーなどの新しい製品ラインを拡充していくことにもつながりました。
今私達が知っているシャネルは1980年代から90年代のカールとアラン・ヴェルタイマーによって作られたということです。
アランはカールを心から信頼しており、カールのやりたいようにやれるように全てを任せています。
だから、ビジネスとして成り立たないように見える試みであっても長期的視点にたって実践することが出来るのです。
経営者とデザイナーの絶対的な信頼関係があってこそ、挑戦的・革新的な取り組みを実行できる基盤が醸成され、皆が憧れるシャネルというブランドが形成されていったと言えます。
カール就任当初の「シャネルは死んだ」と思われていた状態から、ブランドを作り直すのではなく再生するという未だ誰も成しえてこなかった偉業をカール・ラガーフェルドは成し遂げたのです。
そして、カールはモード界の皇帝と呼ばれる存在になり、シャネルの今を力強く牽引していったのです。
近年のラガーフェルドの活躍
シャネルのデザイナーとしてカール・ラガーフェルドに着目していますが、上にも書いている通り、クロエのチーフデザイナーやフェンディ、ティツィアーニをはじめ、シャルル・ジョルダン、クリィツィア、マリオ・ヴァレンティノ、レペットなど数々のブランドのデザインを手がけてきています。
また、自身の名前を冠したカール・ラガーフェルドというブランドも立ち上げています。
皇帝とまで呼ばれるようになったのは、シャネルのアーティスティックデザイナーに就任した後からですが、現在ではカールのデザインしたモノはなんでもすぐに品切れになってしまうほどブランドではなくデザイナーとしての価値が非常に高いです。
例えば2002年にディーゼルとのコラボレーションで発表したデニムラインはまたたく間に完売しました。
他にも2004年にはファストファッションの代表格「H&M」とのコラボレーションを発表したのですが、こちらもあっという間に売り切れです。
もはや「シャネル=カール・ラガーフェルド」という公式すら成り立たず、世界中が彼自身の一挙手一投足に注目しているのです。
一般的に自身の名前を冠したブランドをデザイナーが立ち上げても、例えばシャネルのようなラグジュアリーブランドのデザインを優先してブランドを閉鎖シてしまうようなことが多いのですが、カールはそれらすべてをいつ寝ているかも分からないようなハードワークでこなしています。
デザイナーとしての仕事だけではなく、映画監督、写真家、ラジオパーソナリティなど様々なジャンルの仕事も一流のクオリティでこなしています。
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銀髪のポニーテールに扇子とサングラス、クロムハーツのアクセサリーに細身のジャケットと独特の風貌で世界を魅了する皇帝。
カール・ラガーフェルド亡き後・・
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2019年2月にココ・シャネルの遺志を継ぎ、すでに終わったと思われたシャネルを立て直した皇帝カール・ラガーフェルドがこの世を去りました。
しかし、カール・ラガーフェルドの跡を継いだのはヴィルジニー・ヴィアール。
彼女はココ・シャネルの後では初の女性アーティスティック・ディレクターとなり、オートクチュールとプレタポルテ、アクセサリーを統括することとなりました。
ヴィルジニーは、シャネル一筋というかカール・ラガーフェルド一筋のデザイアーでインターンとしてシャネルに加わった後に刺繍部門を任され、その後カールと一緒にクロエに移籍し、さらにシャネルに戻ってきました。
あのカール・ラガーフェルドに「自分の右腕もあり、左腕でもある」と言われるほどの関係でカールの後を見事に引き継ぎました。
ハイブランドの世界では100年以上続くブランドというのは決して珍しくありません。 その一方で、創業者の圧倒的な影響力がなくなると同時にブランドが力を失い消えていくこともまた珍しくありません。 長く続くブランドというのは、シャネルのように過去から未来へ新しい才能へとその意志が受け継がれ、そして進化を遂げていくブランドなのです。
まとめ
本日は以下について解説しました。
- シャネルの始まり→ココ・シャネルの生存していた時代、カール・ラガーフェルドがココの後を引き継いだ後の時代の大きく分けて2つ存在する
- 生誕からシャネルを立ち上げるまで→孤児院出身で、都市ムーランで歌手として生活、青年実業家カペルと恋に落ちる、帽子専門店「シャネル・モード」を開店
- 成功の狭間で、度重なる運命のいたずら→1913年には、ドーヴィルにモードブティック、1921年に伝説的な香水「No.5」が誕生、ピエール・ヴェルタイマーと手を組む、「リトルブラックドレス(LBD)」や「シャネルスーツ」などを生み出す
- 空白の15年間→第2次世界大戦により、香水のみを販売、ピエール・ヴェルタイマーはアメリカでビジネスの範囲を広げる
- 和解そして、クチュールの復活→第2次世界大戦が終了1954年にブティックを再開、ピエール・ヴェルタイマーと若い、アメリカで人気に火がつく、「チェーンベルトバッグ」や「バイカラーシューズ」などが誕生、1971年に87歳でその生涯を終えました
- ココ・シャネル亡き後の空白期間「凋落」→ジャック・ヴェルタイマーが就任一気に低落する、アラン・ヴェルタイマーが再起する
- 皇帝「カール・ラガーフェルド」によるシャネルの隆盛→カール・ラガーフェルドが1983年にシャネルのアーティスティック・ディレクターに就任
- 皇帝「カール・ラガーフェルド」とは?→幼少期からこだわりが強かった、1955年のファッションデザインコンテストのコート部門で見事優勝、ジャン・パトゥやクロエなどで修行
- シャネルでのキャリアの開始→キティ・ダレーソによって見出された、世界中の女性が憧れるようなセレブリティが愛用することによって名声や価値がブランドイメージへと波及、再生するという未だ誰も成しえてこなかった偉業をカール・ラガーフェルドは成し遂げた
- 近年のラガーフェルドの活躍→クロエのチーフデザイナーやフェンディ、ティツィアーニをはじめ、シャルル・ジョルダン、クリィツィア、マリオ・ヴァレンティノ、レペットなど数々のブランドのデザインを手がけてきています。
また、自身の名前を冠したカール・ラガーフェルドというブランドも立ち上げています - カール・ラガーフェルド亡き後・・→ヴィルジニー・ヴィアールが後を引き継ぐ、「自分の右腕もあり、左腕でもある」と言われるほどの関係でカールの後を見事に引き継ぎました。
100年以上の歴史があるブランドは、奥が深い。
他にも様々な伝説やお話がありますが。
それについては、また次回お話しする事とします。
今日をきっかけに「CHANEL(シャネル)」の魅力が伝われば嬉しいです。
本日も最後までお読み頂き誠にありがとうございます。
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