人生で一度は行くべき奈良県『法相宗大本山 興福寺』

COLUMN(コラム)
画像出典:https://www.city.nara.lg.jp/
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おはようございます。モウリです。

先日奈良県にございます「興福寺」と言う寺院に行ってきました。

興福寺は、奈良市にございまして。
奈良を代表する世界遺産の1つです。
奈良公園にも隣接しており、巨大な大仏で有名な東大寺や春日大社も歩いて行ける距離感です。

ただ自分もそうでしたが、あまり興福寺を知っている人は少ないと思いました。
東大寺は、行くが興福寺にはあまり行った事がない。
そんな人も珍しくありません。

そこで本日は

  • 興福寺 何が有名?
  • 興福寺は誰が作った?
  • 興福寺 なんの神様?
  • 興福寺 阿修羅像 どこで見れる?

あなたが疑問に思っている事を1つ1つ解決していければなと思います。

この記事を参考に興福寺に足を運んでくれる人が1人でも増えてくれたら嬉しいですね。
むしろ世界遺産の他にも国宝や重要文化財も数多くございます。
この時代にご覧いただけるのは大変貴重ですから。

是非人生で一度は足を運んでみて下さい♩

奈良『法相宗大本山 興福寺』について!簡略版


画像出典:https://news.yahoo.co.jp/

和銅3年(710年)に、藤原不比等が現在の地に開いた藤原氏の氏寺です。
この藤原不比等のお父さんが、藤原鎌足という方。
別名としては、中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、歴史の教科書でも度々登場する人物です。
中大兄皇子と一緒に大化の改新を行った中心人物の1人ですね。
藤原家は、その頃からすでにときの権力者でしたね。
藤原一族の隆盛とともに寺勢を拡大しました。
最盛時には数多くの堂塔僧坊が立ち並んでいたといいます。
また、神仏習合の影響をうけ、春日社と一体化し、時には僧兵をしたがえて朝廷へ強訴に及ぶまでになりました。
治承4年(1180)平家に焼き打ちされ、ほとんどの堂が焼失しますが、直ぐに再建されました。
鎌倉時代には大和守護職の実権を握り、実質的に大和国一帯を支配していました。
現在の堂塔は、鎌倉以降の建物を一部残し、広い境内に東金堂・中金堂・北円堂・南円堂・五重塔・三重塔・大湯屋・大御堂・国宝館などが建並び、仏教彫刻類は天平時代や鎌倉時代の至宝を数多く保存しています。
ちなみに、南都七大寺の中で最も密接に奈良の街とつながりを持ちながら発展した寺院です。
南部七大寺につきましては過去の記事「人生で一度は訪れたい奈良県の薬師寺」で詳しく書いておりますので。
参考にしてみて下さい♩

ではここからもっと具体的に「興福寺」について掘り下げていきます。
少々マニアックなお話ですが、歴史の教科書にはあまり載っていない話ですので。
『「興福寺」ってだからこう言う事なんだ!』って理解できると思いますよ♩

奈良『法相宗大本山 興福寺』の歴史


画像出典:不比等・鎌足・貞慧

有名な歴史上の事件である「大化の改新」を行った人物として有名な藤原(中臣)鎌足が重い病気になってしまった際に、その病気が治るように鎌足の夫人である鏡大王(かがみのおおきみ)が、天智天皇8年(669年)に釈迦三尊像を本尊として、山背国山階(現京都市山科区)に創建することになった山階寺(やましなでら)と呼ばれるお寺とされています。

要するに興福寺は、奈良時代に始まった存在ではなく、それ以前から、そして奈良以外の地(現在の京都市)における歴史も前提としているのです。
また当初から「藤原氏」のためのお寺であったという歴史を持っているのです。

さて、その山階寺ですが、壬申の乱が起こった年である天武天皇元年(672年)には、現在の奈良県橿原市にあった「藤原京」に移ることになります。

そこでは「山階寺」から、現地の地名である「厩坂(うまさか)」をとって「厩坂寺(うまやさかでら)」と名乗ることになりました。

奈良時代になると、その他のお寺と同様に、藤原京から平城京の地に厩坂寺も移転することになります。
平城京の造営とともに移転されたお寺は和銅3年(710年)の遷都の年に現在の敷地にすぐに建設されたかは定かでありませんが、少なくとも平城京遷都からしばらくの間に「興福寺」と名を変えた立派なお寺が現在の地に建設されることになりました。

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奈良時代の興福寺 ~発展の歴史~


画像出典:中金堂

現在の地に興福寺が建設され始め、奈良時代が進んでいくと、次々と新しい仏堂が建設されていくことになりました。

遷都の時期、興福寺移転当初の時期には2018年に再建されたものと同規模の「中金堂」が完成したほか、養老4年(720年)の藤原不比等の死にあたっては、その慰霊のために「北円堂」が建設されることになりました。


画像出典:北円堂

また、この時期からは「藤原氏のお寺」としてのみならず、「造興福寺仏殿司」という朝廷によるお役所が設けられ、国家的なプロジェクトとして興福寺の整備が推進されていくことになりました。
奈良時代は「藤原氏」の影響力が大変強い時代であったため、「藤原氏」のために建てられた「私的なお寺」であった興福寺の存在が公的な、大変大きな存在に高められることになったのです。


画像出典:東金堂

その後も神亀元年(724年)には現在再建されている「東金堂」が、天平2年(730年)には「五重塔」が建設され、堂内には多数の仏像が安置されることになりました。
また天平6年(734年)には現存しない「西金堂」も建設され、興福寺の整備は次々と進展していくことになります。


画像出典:五重塔


画像出典:西金堂跡

そして最終的には「講堂」や「食堂」と呼ばれる施設や興福寺の玄関口としての「南大門」といった施設も整備される中で、奈良時代も後半に差し掛かる時期には、奈良を代表する巨大寺院としての「興福寺」という存在がほぼ完成することになりました。


画像出典:和州奈良之絵図(天理参考館蔵)1864(元治元)年発行の絵図

なお、奈良時代には「法相宗」と呼ばれる宗派の拠点として発展していった興福寺を代表する僧侶としては、「頭だけが落ちて来た」とか「肘だけが落ちて来た」という奈良の地に残る「奇怪な逸話」でも有名な「玄昉(げんぼう)」が知られています。

後ほど説明しますが。
現在は、「西金堂」「講堂」「食堂」「南大門」も見れないんだ

いつか復旧して見れる日が来ると良いね

平安時代の興福寺 ~南都北嶺と軍事力~


画像出典:南円堂

奈良の地に数多く存在した巨大なお寺が平安時代に入り、次第にその勢力を衰退させていく一方で、「藤原氏」のお寺として成立した歴史を持つ興福寺は、平安時代に入ると一層の繁栄へと向かっていくことになります。

弘仁4年(813年)には、五重塔に次ぐ現在の興福寺のシンボル的存在としても有名な「南円堂」が創建されました。
また皇族や摂関家といった特別な身分の人々が住職を務める寺院である「門跡寺院(もんせきじいん)」として、興福寺には「一乗院」と「大乗院」と呼ばれる寺院が生まれることになり、いずれも明治の廃仏毀釈の時期まで存続することになりました。

「門跡寺院」とは皇族や公家が住職を務めたお寺のことです。元々「門跡」という言葉は、日本の仏教における正式な後継者のことを指していましたが、鎌倉時代以降は格式の高い寺院そのものを表す言葉になりました。日本で初めて門跡寺院と呼ばれるようになったのは、京都市右京区の仁和寺です。平安時代の昌泰2年(899)に宇多天皇が譲位の後、出家して仁和寺の住職になったことが始まりです。室町時代には門跡寺院の政務を司る門跡奉行が置かれたほどその数が増えたそうです。明治4年(1871)に門跡制度は廃止されましたが、現在も皇室との縁の深さを示す証が境内の至るところで見つけられます。
参考文献:そうだ京都へ行こう

また平安時代は、同じく「藤原氏の神社」として知られる「春日大社」と「興福寺」の関係性が強まった時期でもあります。

「神仏習合思想」と呼ばれる形で、「仏教」という存在が日本古来の存在とされる「神道」に対し優位に立つ傾向が強まる中で、興福寺もまた春日大社に対する支配的な影響力を強めていき、春日大社で読経をしたり、現在でも「おん祭」で有名な「若宮神社」を興福寺が創建するなどといった形で傘下に収めていきました。


画像出典:春日大社

このように多方面に確固たる影響力を築いていった興福寺は、大和の地に多数の荘園・領地を有することになり、経済的にも、政治的にも全国規模の勢力として繁栄を極めることになりました。
また「僧兵」と呼ばれる軍事力を持つなど「独立した力」も持ち合わせるその存在は、同様の力を持っていた「比叡山延暦寺」とあわせ、「南都北嶺」と呼ばれました。

「南都北嶺」とは、中世において大きな社会的勢力をなしていた寺社勢力を指す。南都とは、北に位置する平安京に対する平城京すなわち奈良の都をいうが、とくに、中世になって都市的発展をみせたかつての外京地域に位置する東大寺・興福寺などの寺院やその周辺地域を指していう。ひいては、これらの寺院のなかでもとりわけ強大な力を誇った興福寺を、また同寺およびそれを中核とする寺社勢力を意味した。一方、北嶺は直接には比叡山延暦寺のことであるが、南都北嶺と総称する場合には、園城寺(おんじょうじ)(三井寺)などを含むこともある。すなわち、南都北嶺という語は、平安時代以来、国家的崇敬を受けていたという由緒と正統性を誇り、院政期以降には巨大な実力を兼ね備え、社会的政治的影響力を行使した寺社勢力の総体を表現する場合に用いられている。そのなかで興福寺と延暦寺はそれぞれの中核に位置する代表的な存在であった。

参考文献:コトバンク

しかし、繁栄を極めた興福寺も、東大寺と同様悲惨な災厄に見舞われることになります。

平安時代末期である治承4年(1180年)に奈良のまちを火炎で覆い尽くした平氏一族の「平重衡(たいらのしげひら)」らによる「南都焼討」では、奈良のまちが大火災で覆われ、大仏が融け落ちたことで知られる東大寺の被害のみならず、興福寺も同規模の甚大な被害を受けました。


画像出典:南都焼討

この火災で基本的に全ての仏堂、建築物が焼け落ちてしまった興福寺は、その後再建への道筋へと進んでいくことになります。

しかし、この時本当に全てが焼け落ちてしまったため、現在存在する興福寺の建造物には、奈良時代由来のものが一つもないという「歴史の影」を落としています。(東大寺は規模が大きいため、法華堂などの一部が残りました)

鎌倉~江戸時代の興福寺 ~勢力は衰えつつも~

戦災で壊滅することになった興福寺ですが、その直後から「信円」「貞慶」と呼ばれるお坊さんが再建に向けて特に奔走することになります。
結果として藤原氏や朝廷の力を借りて復興が進められることになり、当時の戦乱の世の影響を受け、そのペースはゆっくりとしたものでしたが復興が進められ、各仏堂、建築の再建が行われていくことになりました。

また、鎌倉時代に入ると、東大寺の阿吽などでも活躍した運慶ら「仏師(仏像をつくる職人)」が興福寺の再建でも活躍することになりました。
復興に当たっては金堂などの主要な仏像は京都の仏師が、それ以外は運慶ら奈良の仏師が担当することになり、現在も残る当時の「仏教芸術」の極みとも言える多数の仏像を生み出しました。

なお、復興の後も、平安末期の壊滅的戦災のみならず何度も火災によって興福寺の建築物は被害を受けていく事になり、現存する東金堂・五重塔などは室町時代に再建されたものとなっています。

なお、藤原氏ら公家の勢力は平安時代をピークに時代が進むにつれ格段に落ちていくことになり、戦国時代、江戸時代と武士が支配する時代へと移行していくなかで、興福寺はその勢力を弱めていくこととなり、領地は江戸時代には2万1000石とそれなりの規模を保障されていましたが、平安時代のような繁栄を極めることはありませんでした。

そのように、江戸時代に入ってからも衰退傾向とは言えどうにか一定の規模を守っていた興福寺ですが、江戸時代中期の享保2年(1717年)に発生した大火災は再び主要な仏堂・建築物を全て消失させる大災害となりました。

この際現存する東金堂、五重塔などはどうにか焼け残りましたが、南円堂・中金堂・西金堂・南大門などの主要な建造物が焼失してしまい、南円堂などはどうにか20年程で再建されることになりましたが、かつてのような経済力を持たない興福寺では全ての再建は難しく、中金堂などは本来の壮大な姿ではなく、小さな仮金堂として再建されるのみとなってしまいました。

明治以降の興福寺 ~消滅の寸前から~

上記のように、江戸時代から衰退の兆しは大きかった興福寺ですが、明治維新とともに訪れた「廃仏毀釈」のうねりは、東大寺などと比較すると格段に大きなものであり、興福寺に創建以来最大のピンチを招きました。

なんといっても「春日大社」を支配する地位として君臨していた興福寺が、仏教を排除して「神道」の国をつくるという「廃仏毀釈」のうねりの中で、「春日大社」の下の立場として、興福寺の僧侶は春日大社の「神官」として働くことを強制される屈辱的な状況となってしまったのです。

そして、一部の境内地を除き全ての財産を没収され、興福寺と名乗ることすら許されないような状況に一時は追い込まれます。

この過程で、奈良市民には有名な「五重塔が25円で売りに出される」というようなエピソードが飛び交うようになるなど、興福寺は事実上「消滅」したお寺に近い状況となってしまうのです。

しかし、廃仏毀釈はどうにか一時的なうねりにとどまり、明治の中頃からは全国的にも再び仏教の勢力は盛り返していくことになります。

興福寺は一度ほとんど消滅してしまっていたため、その勢力を盛り返すことはできませんでしたが、「興福寺」と再び名乗って、境内地を整備し、仏像などの文化財を修理していくといった細々とした取り組みは復活することになったのです。

その後は現在に至るまで、塀もなく「奈良公園の一部」である境内地という状況には変わり在りませんが、大量の仏教美術・仏像を保存していたということもあり、戦後は日本有数の観光スポットとして繁栄するようになり、寄付を集める形で現在の「中金堂」復元工事が行われるなど、少しずつかつての興福寺を取り戻していこうという取り組みが進められる中で、着実に興福寺はその規模を拡大していっています。

参考文献:奈良まちあるき風景紀行

奈良市が作成した動画でも簡略版として興福寺について知る事ができますよ♩
参考にしてみて下さい。

奈良『法相宗大本山 興福寺』の見所とは?

ここでは個人的な観点で見どころをご紹介しようと思います。
行った中で個人的にここは見ておけと思う見所は大きく分けて3つあります。

  1. 国宝でもある東金堂・五重塔は見ておけ
  2. お金を払ってでも国宝館に入るべき
  3. 見落としがちな三重塔・猿沢池

それでは順番に解説します。

国宝でもある東金堂・五重塔は見ておけ

ここは是非とも訪れたいスポットの1つです。
東金堂に入るには、入館料が必要ですが。
お金を払ってでも見る価値はあります。

室町時代の建造物はそのままに。
中には、日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)立像、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)坐像、維摩居士(ゆいまこじ)坐像、十二神将立像、四天王立像などを安置しています。

特にそこに佇む薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)は圧巻します。


画像出典:銅造薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)

薬師如来は「東方瑠璃光浄土の教主」で現世での病気平癒、安産祈願、特に眼病に霊験あらたかとされています。
簡単に言えば、薬壺を持ち病気を治す仏様です。

脇侍の日光・月光両菩薩像(飛鳥・白鳳時代)とセットで「銅造薬師如来両脇士像」という名称にて一括で重要文化財の指定を受けております。

建物の中の雰囲気も入館料を払わなければ伺うことはできません。
当時の雰囲気を肌で感じ取る絶好のスポット言えます。

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お金を払ってでも国宝館に入るべき

国宝館は、旧食堂に建てられた建物。
興福寺の歴史を伝える仏像彫刻や絵画、工芸品、典籍・古文書、歴史資料・考古遺物などが収蔵しています。

個人的には、本尊千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)立像は見るべきです。
とにかく大きいですね。
5メートルもあるそうです。


画像出典:千手観音菩薩

あらゆる方法(千は無数)で人々を救う観音菩薩の慈悲を象徴しています。
千手観音菩薩像を42手にするのは、中央の合掌した2手を除く40手の各手が、仏教で言う25有世界の生き物を救うとされるので、40に25を掛けて千と考えています。

国宝館については、YOUTUBEチャンネル「SHOGAKUKANch」でも解説してくれています。
少々マニアックなお話もありますが。
魅力が伝わると思いますよ♩

見落としがちな三重塔・猿沢池


画像出典:三重塔

見落としがちなのが、三重塔!
こちらは、少し離れた場所にありますからあまり人も多く居ません。

ただ興福寺で最古の建造物とされており。
国宝にも指定されております。
ほとんど外観しか見る事ができませんが。

拝観には、毎年7月7日の弁才天供のみ開帳されます。
もし見に行くならこの日を狙うと良いかなと思います。

ちなみに三重塔に関しては、先ほどご紹介した、YOUTUBEチャンネル「SHOGAKUKANch」でも解説してくれています。

続いては、猿沢池です。


画像出典:https://www3.pref.nara.jp/park/

これ奈良公園の敷地内なので、興福寺とあまり関係ないですが。
猿沢池から、眺める五重塔が美しいと評判になっております。

市民の憩いの場でもあり、お昼時には弁当持ってベンチで座って食事して居たり。
散歩している風景なんかも見れます。

ちなみに日本昔ばなしでも有名な、采女が衣を柳に掛けて入水してしまった悲しい伝説の池でもあります。
衣掛柳の碑があります。


画像出典:https://www3.pref.nara.jp/park/

「奈良采女伝説」については、奈良市観光協会のYOUTUBEチャンネルで詳しく解説してくれているので。
参考にして見て下さい。

個人的には、この猿沢池の近くにスターバックスがありますから。


画像出典:https://haveagood.holiday/

コーヒーをテイクアウトして、コーヒー飲みながらゆっくり猿沢池周辺を散歩するのも良いかな?と思います。

スターバックスコーヒー 奈良猿沢池店

興福寺どう行くのがおすすめ?周りには何があるのか?

最後に興福寺へのアクセス情報とどう行くのがオススメかについて解説します。

基礎情報

住所: 〒630-8213 奈良市登大路町48

アクセス: 近鉄奈良駅東改札から 事務所横 2号階段、エスカレーター横 3号階段。
JR奈良駅から 奈良交通市内循環系統バス5分「県庁前」下車すぐ。

問合せ: 0742-22-7755 (興福寺)

バリアフリー:トイレ1ヶ所

リンク: 興福寺公式ウェブサイトhttps://www.kohfukuji.com/

休業日 :なし

駐車場: 普通車46台 料金:1000円

拝観・入館 料金(個人):

【国宝館 拝観料】 大人(一般・大学生):700円 学生(中学・高校生):600円 小人(小学生):300円

【東金堂 拝観料】 大人(一般・大学生):300円 学生(中学・高校生):200円 小人(小学生):100円

【 国宝館・東金堂連帯共通券(拝観料) 】  個人・団体共通 大人(一般・大学生):900円 学生(中学・高校生):700円 小人(小学生):350円 料金(団体)

団体(30名以上):

【国宝館 拝観料】 大人(一般・大学生):600円 学生(中学・高校生):500円 小人(小学生):200円

【東金堂 拝観料】 団体(30名以上) 大人(一般・大学生):250円 学生(中学・高校生):150円 小人(小学生):90円 身障者割引

【国宝館 拝観料】 大人(一般・大学生):350円 学生(中学・高校生):300円 小人(小学生):150円 時間 国宝館・東金堂とも 9:00~17:00(入館締切 16:45)

奈良駅からも徒歩圏内なので比較的駅近です。
車で行く際は、駐車場があります。
一律1,000円です。
17時までの利用が可能です。
17時以降は出られないので、注意が必要です。

車で行く際は、他にも色々と見に行けるので便利です。

レンタカーは、skyticket(スカイチケット)が良いのではないでしょうか?
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また奈良市内ですから、宿泊先も充実しております。
1泊して他でも見行こうかな?と時間にゆとりを持って観光するのも良いかな?と思います。
2023年現在では、『全国旅行支援』なども使用できます。
『全国旅行支援」については下記の記事で詳しく解説しておりますので。
参考にして見て下さい♩

奈良で宿泊先を見つけれるサイトをいくつかピックアップしておきます。
ご自身で比較検討して見て下さい♩

あとは、楽天経済圏の人は楽天トラベルが優位ですし。
マイレージなどは、JALやANAなども良いですね。
たくさん宿泊先ありますよ♩

楽天トラベルじゃらんnetYahoo!トラベル一休.com
ゆこゆこJTBるるぶトラベル近畿日本ツーリスト
HISJALANAクラブツーリズム

まとめ

本日は以下について解説しました。

  • 奈良『法相宗大本山 興福寺』について!→和銅3年(710年)に、藤原不比等が現在の地に開いた藤原氏の氏寺です。
  • 奈良『法相宗大本山 興福寺』の歴史→幾度となく火災にあい修理を繰り返した、一時は「南都北嶺」と呼ばれ権力を保持して居た
  • 奈良『法相宗大本山 興福寺』の見所とは?→大きく分けて3つ、1:国宝でもある東金堂・五重塔は見ておけ2:お金を払ってでも国宝館に入るべき3:見落としがちな三重塔・猿沢池
  • 国宝でもある東金堂・五重塔は見ておけ→中でも薬師如来坐像は重要文化財に指定され見おくべき仏像の1つ
  • お金を払ってでも国宝館に入るべき→本尊千手観音菩薩は圧倒的存在感。他にも貴重な国宝を伺える
  • 見落としがちな三重塔・猿沢池→興福寺で最古の建造物。猿沢池は、采女伝説の舞台
  • 興福寺どう行くのがおすすめ?周りには何があるのか?→宿泊してゆっくり奈良を観光するのはいかがでしょうか?

本日は奈良にあります興福寺について解説しました。

奈良の興福寺の隣には、春日大社や東大寺もあります。
奈良の中心地に位置しておりますので、東大寺を見るついでに立ち寄って見てはいかがでしょうか?

特に国宝館などは感動すると思います。

また過去に法隆寺についても書いております。
是非そちらも併せてチェックしていただけますと、奈良の観光にお役たちしますよ♩

本日も最後までお読み頂き誠にありがとうございます。

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