現代人が知っておきたい”二宮金次郎”の思想

COLUMN(コラム)
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おはようございます。モウリです

あなたは”二宮金次郎”をご存知でしょうか?
最近はかなり減ってしまいましたが、時たま藁を担いだ少年が本を読んでいる銅像を目にします。


画像出典:https://10mtv.jp/

「あっ見た事ある!」って人もいるのではないでしょうか?
でも実際この人何をした人なの?って疑問に感じる人もいるかな?と思います。
なんか勉強がすごいできる人なのかな?みたいな。

調べてみるとかなりすごい人です。
むしろ現代を生きる私たちが知っておくべき人物と構成。
また思想なのではないかと思います。

現に渋沢栄一(1840-1931)のほか、近代日本を代表する銀行家の安田善次郎(1838-1921)、繊維機械の発明家でトヨタ自動車の祖である豊田佐吉(1867-1930)、パナソニック創業者の松下幸之助(1894-1989)、京セラやKDDIの創業者である稲盛和夫(1932-)ら、近代日本を代表する実業家に受け継がれた思想の持ち主です。
今日はそんな”宮金次郎”についてお話しできればと思います。

  • 現代を生きる私たちの指針になる考え方
  • お金持ちになりたい!と思っている人
  • 何か現状から変化を起こしたい人
  • 人と信頼関係を築くのが苦手な方
  • 誘惑に負けない強い心を持ちたい方
  • 努力しても報われない人生に疲れてしまった方

そんな人にはぜひ読み進めて頂きたい内容です。
ちなみに過去にも二宮金次郎の書籍について解説したツイートもしております。

気になる方はチェックして見てね♪

二宮金次郎について


画像出典:nippon.com

二宮金次郎は、江戸時代後期の農政家・思想家です。比較的裕福な農家に生まれたため、教育にも恵まれて育ちます。しかし、異常天候による川の氾濫で家の田畑が荒廃してしまい、復旧のため借金を抱えます。若くして働くことになった二宮金次郎は、労働しながらも勉強は欠かしませんでした。

一家は貧困を極め、両親は亡くなる悲劇に見舞われてしまいます。しかしその後、地道な努力を重ねて家政の再建を行ったため、二宮金次郎はのちに財政や農村再建の専門家としても有名になっていきました。
出典元:マイナビニュース

正直かなり長く伝える部分も多いので説明が難しいのですが。
お付き合いしていただければと思います。

二宮金次郎は、天明7年1787年、現在の神奈川県小田原市栢山(かやま)で生まれた。
安政3年(1856年)に70歳で亡くなりました。

二宮家は富裕な農家でした。
父の伊右衛門は、農業より学問を好む人穏やかな性格。
困った人がいれば自分の田畑を売ったり、お米を貸してもそれっきり催促しないような大のお人好しでした。
そのせいもあって二宮家の土地もどんどん減っていき、やがて家計も困窮するようになりました。

1791年に起きた水害で田畑の大部分を損失。
父は5年をかけて田畑を回復したが、心身の酷使がたたり、金次郎が14歳の1800年に亡くなくなりました。
一家が極貧の暮らしに転落する中、2年後に母も過労で世を去ります。

確か3人兄弟だったのですが。
次男と三男は母の実家へ。

金次郎は、16歳で伯父に養われる身となりました。
昼間は伯父の家業の農作業に励み、夜は寝ずに勉学に励みました。
だが、伯父は、農民に学問は不要との考えで、金次郎が油の明かりで本を読むことを浪費だとして、厳しく叱りました。

とわ言え農業には学問は大切だと思います。
→どの時期にどれくらいの肥料を与えれば良いか
→水やりのタイミング
→収穫のタイミングなど
データを見て判断する統計みたいな物です。

またこの時代は、和算(中国の伝統数学の系譜を引く日本の算術体系)を行われていました。
和算で、収穫量や税の計算が行われていました。
でななぜ?伯父が起こっていたのでしょうか?

金次郎は、和算となる学問も読んでいましたが。
”思想書”の方をメインに読んでいたと言います。
つまり「そんなもの読んだところで農業の役にたたんだろうが」
という事で起こっていたそうです。

金次郎が非凡なのは、荒れ地に菜種を育てて油屋に渡し、引き換えにもらった燈明油で夜の読書を続けたこと。
昼間も、山に登って薪を切り、背負って歩きながら書物を読んでいました。
先に触れた銅像や石像は、このころの逸話がモデルとなっています。


画像出典:nippon.com

金次郎は20歳のころ生家に戻って再興を図り、田畑の買い戻しに取り組見ました。
資金を得るため他家に奉公すると同時に、買い戻した田畑で収穫した米や野菜を売ってさらに金を稼ぎました。
24歳で約1.4ヘクタールの農地を持つまでになり、再興に成功しました。
農作業と同等に現金収入を重視したことが再興を速めたとみられています。

ちなみにこの再興の仕方ですが。
自分の持っているわずかな農地を小作に預けます。
次に誰も手をつけていなかった荒地を自ら開墾し、また小作に出す。
ある程度開墾したら田んぼの管理を小作に任せ自分は薪売りを通し小銭を稼ぎ。
小作の給料にする。
そうしてほんの少しのお金で節約しながら生活する。
これを繰り返す事で、年が経つにつれて小作に出す給与よりも収入の方が増えるようになり。
わずか8年で2万平方あまりの田んぼを買い戻してしまいます。
今でいう資産運用みたいな物を独学でやってしまっている所に凄さが垣間見えます。

25歳の時に、村の大地主となります。
これは幸徳思想にもありますが、二宮金次郎の勤労とは、一生懸命に働く中で、知恵を働かせて労働を効率化し新しい価値を創造する事を説いています

同年、小田原藩の家老、服部家の使用人とななります。
服部家の子息3人の勉強を助けることが役目で、藩の儒学者の屋敷に共に通っておりました。
子息の近くで講義を聴くことで、自らも学問を深めておりました。

服部家時代の金次郎は、使用人同士が助け合うための金融制度「五常講」を始めました。
互いに金を出し合い、困窮者が借りる制度で、金利も取ります。
参加者は儒教道徳を順守し、確実かつ早期の返済を求められた。
貸し倒れがなく、利息収入が得られることから参加者は積極的に資金を提供しておりました。

金次郎の「五常講」は1820年、小田原藩の出資で藩全体の武士を対象とする制度に発展した。
世界最初の協同組合、信用組合との指摘もあります。
日本では後の明治時代になって「産業組合法」が成立しましたが、金次郎の「五常講」とドイツの「救済貸付組合」を参考にしたと言われています。

この「五常講」を定めた背景としては、服部家にあまりにも借金の申し出がいたからと言われております。

五常とは、仁・義・礼・智・信。

  • お金に余裕がある人が基金を作る
  • お金を借りる人が約束を守って必ず返済する
  • 借りた人が貸した人に感謝する
  • 借りた人は確実に返済できるよう創意工夫する
  • 金の貸し借りに信頼関係を貸さない

上記が「五常講」であります。
これはのちに「幸徳社」として、農村信用組合として多くの人々を救いました。

金次郎はその後、依頼を受けて服部家の財政再建を引き受け、厳しい緊縮策を実施します。
その間、小田原藩主・大久保忠真に見出され、21年、藩主の分家・宇津氏の領地で、現在の栃木県にあった桜町領の立て直しを命じられました。
身分制度が厳格なこの時代に、農民が藩士として登用されて領地の再興を任されるのは極めて異例なことでした。
ちなみにその時に武士となり、尊徳(そんとく)と言う名前に改名しております。

金次郎は1823年、妻のなみ、長男弥太郎とともに桜町領に移住し、再興に着手しました。
当時、桜町領を含む一帯は、土地が痩せ、作物が乏しかった。
住民は怠惰で熱心に働かず、農地は荒廃し、領主の年貢収入が激減していました。


画像出典:nippon.com

金次郎は着任に先立ち、徹底した現地調査を実施しました。
それを元に再興事業の期間と数値目標などを記した契約書を作成し、小田原藩と宇津家との間で取り交わすなど、かなり近代的な方法で事業をスタートしています。
その後の再興事業も、近代の企業家のような思想と手法で取り組んでおります。

まず、開墾できる荒地が多いのにもかかわらず。
朝からギャンブルに明け暮れている農民たちを見て、心が荒れている事に気付きます。
次に過去の財政状況と年貢状況を10年分調べた結果。
小田原藩は莫大な補助金を出しているが、それに比べ年貢の平均が毎年下がっていることを発見します。

毎年莫大な補助金が出れば、百姓たちは贅沢を覚え別にこのままでも良いかと思い自立心が育たない。
自立心が育たないと、村が良くなることはありません。

この経験を元に、幸徳思想の中の「分度」を定めます。
分度とは、それぞれの収入に対する支出をきっちりと予算立てて、その予算の範囲内で生活する
金次郎曰く=水、土地、自然には限りがあるが、人の心が生み出す「贅沢」には限りがない。何事も分度をを持ち、バランスを考えなさい

金次郎は再興事業開始後、藩主が申し出た無償の資金供与をきっぱりと断りました。
それまでも桜町領には藩から補助金が下付されていたが、金次郎にしてみれば、それこそが農民の勤労意欲を削ぎ、再興を妨げる原因だった。

だが、事業にはもちろん金がいる。
金次郎は、持参した自身の財産と、藩から支給された再興事業の請負費用を元手に、低利の融資制度を創設しました。
領民に農機具の購入費用などとして貸し出し、作物を売った利益を返済金に充ててもらった。
農民の自主性と積極性を引き出すための工夫でした。

金次郎は、領民の寄り合い「芋こじ」も重んじた。
里芋を桶に入れ、皮をとるために棒でかき回すことを意味するが、徹底した話し合いによる合意形成をこう呼んでいました。
農村では、個々の農民の勤労に加えて、共同作業が不可欠だ。
用水路の整備や、村民の共同利用地「入会地」の管理は、みんなで力を合わせてやらねばならない。
「芋こじ」は、共同体の結束強化の手段でした。

これを『心田開発計画』と言います。


画像出典:nippon.com

金次郎はまた、米相場を張らせました。
この面で能力がありそうな領民の若者に命じ、米の収穫量を予想して売買させました。

夏に収穫された初物のナスを口にした時に、秋茄子の味がする事に違和感を覚え。
村人達にこう言いました、「この時期に秋茄子の味がするということは、今年は冷夏となり稲が育たない可能性があるということです。すぐに綿花畑などは潰してください、その代わり稗、粟、大豆などを作っておき万が一の被害に備えてください」
金次郎の予感は的中し、大雨洪水冷害などが発生し、何年も凶作が続きます。
これがのちの百姓一揆につながります。
桜町領は、後の36年に起きた「天保の大飢饉」の際、事前に米を買っていたため、被害は最小限にとどまりました。

「移民」の奨励も金次郎が導入した改革の一つです。
当時は、米穀生産が経済の根本だが、桜町領では逃散する農民が多く、水田の3分の1が荒れ地になっていました。
そこで子だくさんの地域から移住者を受け入れて労働力不足を補っていました。

順調にみえた桜町領の再興事業だが、途中で一度、挫折もしております。
金次郎に反感を抱く藩の武士と領内の反対派が結束し反発したた目です。
特に藩が派遣した役人との対立は激しいものだった。

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画像出典:nippon.com

金次郎はいったん桜町領を離れ、千葉県の成田山新勝寺にこもり21日間の厳しい断食修行を行いました。
その結果、「一円観」という真理を悟った。
善悪や苦楽といった二項の対立も相対的なもので、対立者の心は動かすことができるとの信念を抱いた。

成田山新勝寺にこもっていた頃、日本の宗教家であり社会教育家である小谷三志と出会い、
「農民や役人が自分に従わないと仕事を始めないと思っておられるようですが、一番大切なのは復興ではありませんか」と言われ、役人や農民を改心させようとしていた自分に気づき、まず復興作業を始めなければと心に決めて桜町に戻ったそうです。


画像出典:nippon.com

思想をリセットした金次郎の復帰後、桜町領の再興事業は円滑に進み始めた。
金次郎の不在で彼の偉大さを領民が痛感したことに加え、藩派遣の役人が交代したことも大きかった。
結局、桜町領の再興事業は成功した。赴任最後の31年、年貢米の収穫可能量は開始時の2倍近くに増えました。

金次郎の功績は、各地に知れ渡り、再興事業の依頼が相次ぐようになりました。
生涯に再興を請け負った土地は、現在の9県と北海道にまたがる600村に及ぶと言われております。

ちなみにこの時のことを簡単にまとめた動画があります。
真岡市役所が作成した動画です。

二宮金次郎が残した思想


画像出典:nippon.com

どのようなことを人々に説いたかということが大事ではないかと思います。

二宮金次郎は、各地の再興事業での実績に加えて、独自の哲学「報徳思想」で後世に大きな影響を残しました。
父母、夫婦、兄弟、天地大自然から受けている恩徳に感謝し、これに報いる行動を行うべきだという道徳思想。金次郎が指揮した各地の再興事業は、報徳思想に基づき行われたので「報徳仕法(しほう)」と呼ばれます。

報徳思想は「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の4つが中心的な理念となる。
このうち「分度」は、自分の収入に応じた支出の限度をあらかじめ算出すること。
倹約と儲蓄(ちょちく)の基礎となる。
金次郎は、個人だけでなく家や国家にも分度を求めました。
また、「推譲」は利他の思想。
分度を守り生じた余剰は、他人や社会のために用いるよう求めました。

金次郎の高弟、福住正兄(1824-1892)は報徳思想を「道徳経済一元論」と総括しています。
金次郎が、克己と節制、利他主義に基づき経済活動を行えば、国家や社会の安定・繁栄に結びつくと説いているため。

マックス・ウェーバー(1864-1920)は、プロテスタンティズムの禁欲主義が近代資本主義の誕生を準備したと述べた。金次郎が、日本近代資本主義の形成を、思想面で準備したと言えるかも知れません。

ちなみに本でも二宮金次郎について知る事ができます。

まとめ

本日は以下について解説しました。

  • 二宮金次郎について→江戸時代後期の農政家・思想家
  • 幼い頃は貧しくも勉強熱心だった。
  • 世界初の協同組合・信用組合である「五常講」を開始した。
  • 各地の再興事業を手掛けた。
  • 独自の哲学「報徳思想」で後世に大きな影響を残した

ここには記してないですが、他にもすごいエピソードがいっぱいあります。
気になる人は、是非二宮金次郎について知ると良いです。

いやこの人の思考とか生き様がカッコ良すぎて痺れますね。
この人が様々な人に盈虚を与えているのは、想像がつきますね。
自分も「報徳思想」で毎日を生きようと思います。

本日も最後までお読み頂きまことにありがとうございます。

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